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「やるしかなかった」巨人V9支えた“塀際の魔術師”高田繁さん 長嶋監督からの驚きの提案に一度は拒否も

スポーツ報知 2024年7月19日 5時15分

 巨人球団創設90周年記念の連続インタビュー「G九十年かく語りき」の第7回は高田繁さん(78)の登場だ。俊足巧打に加え、卓越した左翼の守りは“塀際の魔術師”と称され、V9の大きな推進力となった。三塁への常識破りのコンバートも成功させた名バイプレーヤーの、「喜怒哀楽」の記憶をたどった。(取材・構成=湯浅 佳典、太田 倫)

 長嶋さんの家で待っていたのは、トレードではなく、コンバートの通告だった。「三塁をやってくれ」。内野なんてやったことがない。無理だ。トレード志願すると、「お前は出さない」。やるしかなかった。

 生きるか死ぬかだった。1月に3人目の子供が生まれたのも発奮材料に、懸命に練習した。休みは正月の3日間だけ。長嶋さんも休まずノックをしてくれた。翌年から後楽園が人工芝になる。多摩川のサブグラウンドに同じ材質の芝を敷いて、その上で練習した。今ほど芝の質も良くないし、長嶋さんもまだ若いからガンガン打ってくる。打球が速いのなんのって…。そのぶん上達も速かった。

 外野では4年連続でダイヤモンドグラブ賞(現在のゴールデン・グラブ賞)をもらっていた。コンバートは、長嶋さんじゃなきゃ絶対にできない発想だ。76年はキャリアハイの打率・305も残し、内外野両方でダイヤモンドグラブを取った初めての選手にもなれた【注】。おかげで現役最後の5年間は充実していた。土壇場に追い込まれないとコンバートは成功しないと肌で知ったことは、指導者やフロントになって生きた。

 オレは柴田勲さんをライバルとしてものすごく意識した。ものすごくね。ONがいて、柴田さんというスターがいる。こちらが2学年下だけど、同じ外野手で、足を売りにする似たタイプだったから。柴田さんは、オレのことは何とも思っていなかったと思うけどね。

 私生活も派手で、飲みに出かけるのも好きだったのが柴田さん。オレはどちらかというと銀座なんかは苦手。遠征先でもホテルでゆっくりご飯を食べているほうが、性に合っていた。この人より少しでも数字で上回ろう、1円でも多く給料をもらおう、と思ってやっていた。追い越せたと思えたことは一度もない。それでも、身近なところに目標があったのは、すごく幸せだったと思う。

 80年11月のファン感謝デー。王さんの引退セレモニーがあった。自分が胴上げされたあとに王さんがオレを輪の中に呼んでくれて、胴上げをしてもらった。うれしかったね…。何の後悔もない。本当に完全燃焼だった。

 【注】ダイヤモンドグラブ賞を72年から75年まで4年連続、外野手部門で受賞。さらにコンバートされた76、77年には2年連続で三塁手部門で選出された。外野、内野両部門での受賞は史上初だった。のちにロッテ・西村徳文(二塁→外野)、日本ハム・稲葉篤紀(外野→一塁)も両部門で受賞しているが、連続受賞は高田しかいない。

 ◆高田 繁(たかだ・しげる)1945年7月24日、鹿児島県生まれ。78歳。浪商高(現・大体大浪商)から明大に進み、67年ドラフト1位で巨人入団。68年に新人王。69年から4年連続ベストナイン。80年引退。85年から4年間、日本ハム監督。巨人の1軍コーチ、2軍監督、日本ハムGMを歴任し、08年から10年途中までヤクルト監督。11年12月にDeNAの初代GMに就任し、18年まで務めた。現DeNA本社フェロー。現役時代の背番号「8」から「エイトマン」の異名も。右投右打。

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