Infoseek 楽天

元世界王者・五十嵐俊幸も仰天 アテネ五輪ボクシング1回戦のセコンドにモンゴルチームのコーチが…後編

スポーツ報知 2024年7月27日 7時0分

 2004年8月18日、アテネ・ぺリスラン・ボクシングホール。五十嵐は1回戦でエチオピアのエンダルカチェ・ケベテと対戦した。3回までは主導権を握り5ポイント差をつけるリードだったが、最終4回にスタミナが切れ、大量ポイントを許しての逆転負け。だが、その採点には「あまりにも不可解」と、20年経った今でも納得はしていない。アテネの戦いはあっさりと幕を閉じてしまうのだが、この試合は国の壁を越えた援助があったからこその実現となった。

 ボクシング競技の代表は五十嵐のみ。アテネに行くのは五十嵐と日本代表監督の本博国の2人。だが、試合にはメインとサブの2人のセコンドが必要となる。ラウンド間のインターバルで一人で仕事をまかなうことは不可能で「協会の方からサポートの枠を2つに増やして欲しいとJOCに要望したんですが、『選手ひとりのところにサポート2人は与えられない』と取り合ってもらえなかった」。何度お願いしても状況が好転することはなく、どうすることもできないまま、半ばあきらめの心境でアテネ入りしたという。

 試合当日。会場入りした五十嵐は目を疑った。同時に感謝の気持ちがあふれた。モンゴルチームのモンゴル人コーチが日本代表のジャージーを着てサブのセコンドに入り、試合をサポートするというのだ。

 「今でも詳しい事情は分かりません。でも、派遣メンバーを増やしてもらえないことが分かってからは、監督の頭の中には(その案が)あったんじゃないですか。他国のチームの人間がセコンドに入るのはグレーな部分ですよね。でも、試合をするためにはこれしかないと考えていたんだと思います。実際、会場で試合をして、何も問題なく終了した。これは監督の顔の広さ、人徳だと思います」

 国際大会で毎回顔を合わせ、顔見知りになり会話をするまでになったモンゴルのコーチに現状を説明すると、同コーチは快諾してくれたのだと五十嵐は解釈している。当然、モンゴル人コーチが口にするモンゴル語は分かるはずもない。「不思議なもので、言葉は分からなくてもジャスチャーとかで言ってることが分かるんです。戦術的なことではなくて、頑張れというメンタル的な部分のアドバイスですね。試合中はモンゴル語のエールに勇気づけられました。これ、面白い話しでしょ」。五輪ならではのエピソードに大笑いした。

 前述した「不可解な判定」には、いまだに納得していない。五輪ボクシングの判定は何かと物議を醸してきた。88年ソウルの辺丁一(韓国)の判定負けへの抗議、ロイ・ジョーンズ・ジュニア(米国)の不可解は判定負け、2016年リオの不正判定問題と枚挙にいとまがない。五十嵐は最終回(4回)に逆転されるのだが、相手セコンド陣から選手への指示はこうだった。「今、逆転したぞ。あとは逃げ切れ」。試合中は選手側に採点が分からないのがルールだが、相手セコンド陣にはジャッジのポイントが逐一情報として流れていたことになる。「相手のセコンド陣がポイントを逆転したことを分かっていること自体が解せない。相手に情報が漏れていたとしか考えられない」と、やり場のない怒りを吐露した。

 卒業後はプロになろうと決めていたわけではない。当初は地元の秋田に戻り体育協会への就職を予定していた。しかし、卒業直前に内定取り消しとなり、プロを選択せざるを得ない状況となった。2006年8月に帝拳ジムからプロデビュー。五輪代表のプロデビューはソウル五輪の東悟、瀬川設男以来、実に18年ぶり。その人数の少なさは、当時のプロとアマのゆがんだ関係がそのまま数字になって表れた形だ。

 プロ18戦目の2012年7月、WBC世界フライ級王者ソニー・ボーイ・ハロ(フィリピン)に挑戦すると2―1の判定で王座を獲得した。その4か月後にはネストール・ナルバエス(アルゼンチン)を判定で退け初防衛に成功。オリンピアンからプロの世界王者となり防衛を果たした初の日本人世界王者となる。ロイヤル小林、平仲明信もオリンピアンからプロの世界王者になったが、ともに初防衛には失敗していた。

 2度目の防衛戦(2013年4月)はアマ時代からのライバル八重樫東(大橋)を指名した。過去に4度対戦して全勝。自信たっぷりに挑戦者を退ける胸算用は開始のゴングと同時に打ち砕かれた。終始劣勢を強いられ0―3の判定負け。最後の試合は2017年12月。WBO王者の木村翔(青木)に挑戦して9回TKO負けした。「すべてやりきった。悔いは無い」とこの試合を最後に引退した。

 アマでは五輪、プロでは世界王座とどちらも輝かしい足跡を残した。五十嵐にとってアマ、プロの世界はどう映っていたのか。

 「ボクシングをするという意味ではプロだから、アマだからという違いはないです。アマ時代は自分のためだけにやっているので素直に楽しかった。逆にプロはきつかったし、大変でした。家族のため、応援してくれる後援者のため。色々なものを背負ってリングに上がっていましたが、いま振り返れば自分の人生はボクシングで成り立っていたんだなと感じます。プロアマ通じての19年間は本当にいい思い出です」 

 アマチュアの試合はしばらく見ていないそうだが、その活躍は常に気にかけている。パリ五輪男子では71キロ級の岡沢セオン(INSPA)、57キロ級の原田周大(専大)という2人のメダル候補が出場する。

 「今のアマの選手たちは本当に実績がすごい。自分たちのころは世界選手権でメダルを取るなんてあまり現実味がなかったが、今は当たり前のように取っている。パリも(メダル)いけるんじゃないですか」

 アテネの舞台で架けることの出来なかった「栄光の架橋」。その夢はパリの後輩たちに託した。(近藤 英一)=敬称略、おわり

 ◆五十嵐 俊幸(いがらし・としゆき)1984年1月17日、秋田県由利本荘市生まれ。秋田県立西目高3年でインターハイ、国体を制覇。卒業後は東農大に進学し2、3年時に全日本選手権優勝。2004年アテネ五輪代表。アマ戦績は95戦77勝18敗。2006年8月にプロデビュー。2012年7月にWBC世界フライ級王座を獲得し1度の防衛に成功。プロ戦績は23勝(12KO)3敗3分け。身長167センチの右ボクサーファイター。引退後は株式会社ENEOSフロンティアに勤務。家族は妻と中学2年生の長男。

この記事の関連ニュース