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【パリ五輪】加納虹輝、日本勢初のフェンシング個人金メダル 地元英雄「ヤニック」コール大合唱も「圧倒されなかった」

スポーツ報知 2024年7月29日 22時9分

◆パリ五輪 第3日 ▽フェンシング男子 決勝(28日、グラン・パレ)

 男子エペ個人は28日、決勝が行われ、21年東京五輪団体金メダルの加納虹輝(26)=JAL=は、ヤニック・ボレル(35)=フランス=に15―9で快勝。日本勢初の同個人種目金メダリストとなった。1900年パリ万博が開催された歴史的施設「グランパレ」で日本人が地元の英雄を撃破。競技発祥の地とも言われるフランスで、173センチの日本人フェンサーが新たな扉を開いた瞬間を小林玲花記者が「見た」。

 パリ中心部で120年以上の歴史を刻む「グランパレ」。街の中で圧倒的存在感を放つ舞台で、加納が頂点に立った。フランスの国技で、相手は地元選手。超満員の客席では多くのフランス国旗が揺れ、突き刺さるような「ヤニック」コール。仮設の会場は足元が震えるほど揺れていた。そこは異様な大アウェーだった。

 だが、挑戦者は「圧倒されることはなかった。集中した」と自分の世界に入り込み、巨大な会場を一瞬にして無音にした。階段を下りてのおしゃれな登場は「こけないようにしなきゃと思っていた」と笑ったが、「ここで試合ができるのは最初で最後。すごくいい経験」と心から楽しんでいた。

 195センチの大型選手に対し、加納は173センチ。リーチも違えば、足の長さも違う。体格で言えば圧倒的不利も素早い剣さばきと鋭い踏み込みで、翻弄(ほんろう)した。あと1点に迫ると勝利を確信。「勝った瞬間、手を上げる」と歓喜の迎え方を思い浮かべる余裕さえあった。仲間2人を破ってきた“日本人キラー”を一蹴。「3人目が負けるわけにはいかない」。今度は個人で新たな扉をこじ開けた。

 強さの原点は体操。3歳から五輪選手も輩出する愛知の名門クラブに通い、週6で練習。五輪に出ることを夢見た。体の線が美しく、小5の時は西日本の大会で平行棒3位の実力。柔軟性、体幹の強さ、体のコントロールを培った。一方で度重なるけがに苦しむ日々。「つらいでしょ。やめていいよ」と声をかけた母・貴子さん。泣き続ける息子は「じゃあ、フェンシングをやりたい」とつぶやいた。

 突然の口から出た競技に家族は驚いたが、加納の胸の奥には1年前に見た北京五輪が刻まれていた。フェンシング男子フルーレ個人で初の銀メダルを獲得した太田雄貴氏。「あんなにカッコいいスポーツが、世の中にあったのか」。すぐにのめり込んだ。

 中学時代までは無名。努力家は、自宅3階の和室にスポーツジムから1枚500円で買ったストレッチマットをはり、四角い印をつけて突く自主練習の日々。部屋の照明からつり下げた糸の先端に5円玉をつけ、揺れ動くターゲットを的確に突く独自トレーニングも重ねた。父が製作した約30センチのオリジナル剣を常に持参。スキー場にまで持って行き、感覚を研ぎ澄ませた。

 極度の負けず嫌いだった少年。3歳の頃「ウルトラマン」になるのが夢だった。みんなを助ける“ヒーロー”に憧れた。その23年後、加納はフェンシングで夢と希望を与えた英雄になった。

 ○…加納は快挙から一夜明けた29日、パリ市内で会見。次は8月2日に団体で2冠&2連覇への挑戦を控え「全く気は抜けていない。団体でも金メダルを獲得できるようこれからまた準備していく」と決意を込めた。前日の試合後、選手村に戻ったのは日付が変わった午前1時半。日本チームのメンバーは「ほぼ寝てました」という。この日朝、同部屋のメンバーにメダルを見せ、歓喜を分かち合った。

 ◆エペジーーン フェンシングのエペ団体の愛称。19年頃、男子主将だった見延和靖が取材陣に愛称を聞かれた際に命名した。「エペ陣」をもじった造語で「ジーーンと感動させたい」との願いも込めて「ー」を2本使う。21年東京五輪の男子エペ団体で日本がフェンシング初の金メダルを獲得。決勝後の会見で見延ら4選手が「エペジーーン」と喜びながら叫び、世間の注目を集めて同年の新語・流行語大賞にノミネートされた。

 ◆フェンシング 14~15世紀頃のイタリア、ドイツ、フランスの中世の騎士の剣術が原型とされる。その後、18世紀から欧州各地で競技会が行われるようになった。ルールがばらばらだったが、19世紀になっても競技が盛んであったフランスで国際フェンシング連盟(FIE)が設立。そのためフランス発祥とされ、用語もフランス語が多い。五輪ではフルーレ、エペ、サーブルの3種目が実施され、剣の形状や得点となる有効面が違う。

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