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「諦めない気持ちをつけてくれた」ワタガシを強くした13年前の“苦難”とは…パリ五輪

スポーツ報知 2024年8月3日 8時36分

◆パリ五輪 第8日 ▽バドミントン(2日、ポルトドラシャペル・アリーナ)

 渡辺勇大、東野有紗組(BIPROGY)のワタガシペアが結成された中学時代。恩師である、福島・ふたば未来学園の斎藤亘氏が結成のきっかけや、強みなどを語った。東日本大震災など苦しい時期を乗り越えた2人。過酷な環境を乗り越えて日本バドミントン界初の2大会連続表彰台となる銅メダルの快挙を達成したペアの原点に迫った。

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 ワタガシペアが結成されたのは2011年。海外の試合での出来事がきっかけだった。「せっかく出るんだから、シングルスもダブルスもミックスも出よう」と様々な組み合わせを試した。その中の一つが渡辺・東野組だったという。当時の2人を齋藤氏は「すごいウマが合うな。スピードがあったり、息が合う。なんかそんな印象持っていた」と振り返った。

 入部した当時はそれぞれ、これまで見たことないような選手だったという。1学年先輩の東野は「ジャンピングスマッシュを打つ女の子。珍しいな」という印象を抱いたという。当初はシングルスの選手だったため、ダブルスでは失敗することも多かったという。そんな東野を「今はその持ち味を本当に生かして頑張っている」と成長を実感していた。

 一方の渡辺はすごくきゃしゃな選手だったと明かした。「同年代の子と比べて大丈夫かな、やっていけるかな、なんていう心配もあった」と懐かしそうに振り返った。だが、初の海外遠征でインドネシアに行った際、海外の選手から「天才」だと何回もいわれたという。

 2人にとって最も大きな転機となったのは、ペア結成前。11年3月11日の東日本大震災だ。当時2人の通う富岡第一中は福島・富岡町に校舎を構えていた。だが、震災で被災し県内の猪苗代町に移転を余儀なくされた。バドミントンの練習が再開できたのは同年5月。活動拠点となる体育館が避難所の役目を終えてからのことだった。

 場所も制約された。練習時間はこれまでの3分の2となり、私服でバドミントンを行う日々が続いた。そんな中、「明るく楽しく全力でやろう」といモットーが部の中で生まれ始めた。「みんなの笑顔や取り組みがいまだに印象に残っている。こういう気持ちでやるのが、きっと強くなるんだろうなっていうことで、今も明るく楽しく(やっている)」。

 苦労は多かったが、その分渡辺も東野も成長したと齋藤氏は話す。親元を離れ福島に来ていた2人。渡辺は地元の東京に帰りたいと話すことも多かったが、震災をきっかけに大きく変わった。「避難先の猪苗代で生活して、子供ながらに、バドミントンが嫌だとか、親元に帰りたいなんて言ってる状況じゃないと感じていたと思う。震災は私たちに損失を与えたが、そこで戻ってきた子たちは諦めない気持ちをつけてくれた」と人間として大きく変わる契機になったと振り返った。

 東京五輪では銅メダルを獲得。メダリストには五輪で実際に使用した表彰台を寄贈する権利が与えられ、バドミントン専用体育館に置かれている。寄贈式に東野は体調不良で参加できなかったが、渡辺が出席。「東京五輪で成し遂げられなかったこともあったし、成し遂げたこともあったから、夢を継いでほしい」と生徒たちへ話し、表彰台を贈ったという。

 最大の目標であった金メダルには届かなかったが、2大会連続銅メダルという快挙を達成。再び日本中を沸かせ、感動を届けたワタガシペアの雄姿は、東日本大震災の被災地・福島からこれからも語り継がれていくだろう。(富張 萌黄)

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