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主将の松山恭助 父が明かした強くなった秘けつは「道場破り」…パリ五輪

スポーツ報知 2024年8月5日 9時4分

◆パリ五輪 第10日 ▽フェンシング(4日、グランパレ)

 男子フルーレ団体決勝が行われ、日本(敷根崇裕、飯村一輝、松山恭助、控え=永野雄大)がイタリアを45―36で下して五輪初制覇を果たした。この種目でのメダル獲得は12年ロンドン五輪銀(三宅諒、千田健太、太田雄貴、淡路卓)以来、2度目。今大会のフェンシングでのメダル獲得は4日連続、獲得数では5個の空前のメダルラッシュとなった。国別ではフェンシングの母国・フランスに次ぐ2位の快挙を成し遂げた。主将を務めた松山恭助(27)の父・大助さんが取材に応じた。

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 松山がフェンシングに出会ったのは、4歳の時。2歳上の兄・大助さんと一緒に東京・台東区のスポーツセンターで始めた。球技が得意で、両投げ両打ち。利き手は右だが、最初に構えたままサウスポーになったという。小学生の頃には才能が開花。自身も日の丸をつけたことがある大助さんは「小さい頃から、競技の本質を理解していた。距離のとり方、相手の懐に入るタイミングは、抜群だった」と、当時を振り返る。

 トップ選手には、親族に経験者が多いというフェンシング界。「うちは体育会系がいない」という松山家は、両親ともフェンシングには元々縁がなかった。ただ母は、幼い恭助がコーチから指導されたことを落とし込めるように、自身もフェンシングを始めたという。そして大人たちが練習する環境につれていき、常に格上の相手と剣を合わせた。「強くする方法の一つとして、警視庁や、高校の強豪校に連れて行ったり。道場破りみたいに行っていましたね(笑い)」と武史さん。兄弟で負けず嫌いだった2人は、相手が大人でも関係なし。大助さんは「僕と恭助は、強い人とやりたい、みたいな。競技をやってる時は、戦友のような関係でした」と明かした。

 父が今でも鮮明に覚えているのは、恭助が小学3、4年の頃。試合会場に行くと、普通はコーチが選手につける一対一の指導『レッスン』を、体いっぱいにプロテクターを着けながらつけていたという。「フェンシングの理屈を理解しているからでしょう。面白い光景ですよ。亀みたいにプロテクター着けて。他の人も『何事だ』みたいな目でみるんです」と武史さん。次第に、周囲からは当たり前のように聞こえてくるようになった。「恭助が五輪に出なきゃ、誰がでるの」

 高校時代は、08年北京五輪で個人銀メダルの太田雄貴氏以来となる、インターハイ3連覇。努力を重ね、太田氏の後継者として日本代表の主将として成長し、五輪王者まで登りつめた。台東区出身の生粋の江戸っ子は、現在も実家から練習に通う日々。国内試合は時にコーチとして帯同するという大助さんは、今でも心強い相談役だ。「日頃から、お互い言いたいことは言う関係。細かい変化も恭助から言ってくれるので、家族でもサポートしやすい」。

 五輪前、世界一に臨む恭助に、経験者の心も込めて願っていた大助さん。「もちろん、優勝を願っています。でもフェンシングは、優勝候補が初戦敗退してもおかしくない競技。もし負けても『今日はそういう日だったか』という感じで見ています」。フェンシングの母国、フランスで応えた期待。松山主将率いる日本が、フェンシング界に新たな歴史を刻んだ。(大谷 翔太)

 ◆松山 恭助(まつやま・きょうすけ)1996年12月19日、東京・台東区生まれ。27歳。東亜学園、早大を経てJTB所属。正確な技術、落ち着いた試合運びが特徴。21年東京五輪では主将として臨むもフルーレ個人3回戦、団体が4位。180センチ、74キロ。

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