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親友が明かす文田健一郎、再起の舞台裏 東京から1000キロ離れた場所を訪ねて発した言葉の重み…パリ五輪

スポーツ報知 2024年8月7日 10時29分

◆パリ五輪 第12日 ▽レスリング(6日、シャンドマルス・アリーナ)

 レスリング男子グレコローマンスタイル60キロ級で文田健一郎(28)=ミキハウス=が悲願の金メダルに輝いた。決勝で曹利国(中国)を4―1で下し、銀メダルだった2021年東京五輪の悔しさを晴らした。日本勢のグレコローマンスタイルでは1984年のロサンゼルス五輪の宮原厚次以来、40年ぶりの快挙だった。日体大の同期で親友の山本貴裕さん(29)が文田の人柄や東京五輪後の再起の舞台裏を明かした。

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 21年東京五輪。決勝で敗れた文田を見て、山本さんはテレビの前で涙が止まらなかった。「めちゃくちゃ悔しくて、人の試合を見て初めて泣いた。一緒に過ごしてきた時間があったし、いろんな話もしていた。勝手に一緒に頑張ってきた感があったから」。文田が五輪に懸けた思いも、努力してきた姿も見てきた。それだけに、金メダルという結果で報われなかったことが、自分のことのように悔しかったのだという。

 高校2年で柔道部と兼部でレスリングを始め、日体大進学後に文田と出会った。最初から仲が良かったわけではない。「僕もツンツンしていたので。(文田)健一郎は高校10冠の男。僕はほぼ大学で始めたような男で、天と地の差がある。他もみんな僕より強い人ばかりだったから、追いつきたくてライバル視して、人と仲良くしないってとんがっていた」と振り返る。

 会話はなくともスパーリングで肌を重ね合わせるうち、自然とお互いを認め合うようになっていた。練習はいつもバチバチやりあった。山本さんの主戦場は72キロ級で階級差はあったが、スパーリングの勝率は、文田に水をあけられた。「自分が勝つ時は、30秒ぐらいで2回バコンって投げて8点でおしまいみたいな。それをめちゃめちゃ悔しがって。やるか、やられるか。本当に試合みたいなスパーリングだった」。

 山本さんは卒業後、2年間は大学院で学び、社会人となった文田も拠点を母校に置いていた。同級生の多くが地方に散っていった中で、2人で過ごす時間は自然と増えた。練習後にサウナに入り、食事を重ねて、東京五輪代表選考レースでセコンドに入った。気の置けない関係だったが、考え方は真逆で、気付けばいつも“論破合戦”に突入していた。

 賛成と反対の立場に分かれて行うパネルディスカッションのように競技や教育、恋愛など、さまざまなテーマで持論をぶつけ合った。互いに主張は譲らない。「もう寝るか」と時間切れで終了するまで議論はいつも平行線だったが、楽しかった。「彼の考え方は自分の中ですごく大きくて、彼もまた自分の考えをより深めて新しい価値観が生まれていって。それがすごく刺激的で良かった」と懐かしんだ。

 議論で一歩も引かなかった山本さんが“完敗”を認めた答えもあった。『好き勝手やって五輪で銅メダルを取るのと、きつい練習をして金メダルを取るのとどっちがいいか』。

 文田はこう答えた。

 「俺はどっちでもない。世界王者になった時は確かに苦しかったけど、楽しかった。俺はしんどいことも苦しいことも、楽しく乗り越えて金メダルを取りたいんだ」。

 その考え方は教員の立場になった今、学生たちに伝えることもある。

 東京五輪後、山口・下関市で中学の教員となっていた山本さんを、文田が訪ねてきたのは21年10月だった。当時交際していた妻・有美さんと2人で自家用車を運転し、約1000キロ離れた下関市で再会。滞在は3~4時間ほど。昼食を食べ、勤務先の高校や関門トンネルを案内した。

 東京五輪の話題にはほとんど触れなかったが、ストレートに伝えた。「俺、めっちゃ泣いたよ。恥ずかしいけどさ。お前が一番悔しいのは分かる。でも俺も一緒に悔しかったわ」。

 黙って聞いていた文田は別れ際、「この借りは五輪でしか返せないから。またやるわ。じゃあ、またな」と吹っ切れた表情で車に乗り込み、走り去っていった。

 それから文田はパリ五輪を目指して動き出し、金メダルという最高の結果を手にした。「日本に帰ってきたらまたしょうもない話をして、ああでもないこうでもないと語り合いたい」。山本さんは夢をかなえた親友と、また熱く語り合える日を楽しみにしている。(林 直史)

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