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寺田恵子、「これだ!」セクシーでカッコいい「SHOW―YA」誕生の秘話語る 80歳でも対バンライブ約束…インタビュー

スポーツ報知 2024年9月1日 11時0分

 1980年代に一世を風びした女性5人組ロックバンド「SHOW―YA」が、8月に結成40周年イヤーに突入した。東京・日比谷野外大音楽堂で、自らプロデュースする女性ミュージシャン限定ロックフェスティバル「NAONのYAON」を開催するなど、精力的に活動し続ける。脱退と再加入を経験したボーカル・寺田恵子(61)が、パイオニアとして切り開いてきた女性ロックバンドの歴史を振り返った。(増田 寛)

 黒ずくめの服、ステージ上の激しいヘッドバンギングを全力でやり続ける過激さからは一転、後輩たちへの温かなまなざしは、まさに“姐(あね)さん”だ。女性若手アーティストの相談などにも真剣に向き合い、「NAON―」にオファーを出して活躍の機会を提供する。彼女たちが背中を追いたくなるのは当然だろう。

 「『NAON―』のきっかけは、THE ALFEEの野外ライブに対抗したかったから。当時から負けず嫌いで、誰にもできないフェスをやりたかった。今は、若手の女性ミュージシャンやスタッフの夢を持つ場。結婚や産休を経た女性アーティストがまた戻ってくる場所でもありたい」

 すでに還暦を超えたが、若々しさは変わらない。寺田は「喉が弱いし、体も強いほうじゃない。でも、気持ちだけはすごいストロング。若い子と一緒の時も誰よりも楽しんでいる。元気すぎて“妖怪”って言われたりもするけど…」と笑い飛ばした。

 音楽愛の原点は家族の影響だった。幼少期からテレビやラジオで音楽を浴びるように聴いていた。中でもロックシンガーのカルメン・マキ(73)に衝撃を受けた。「姉の彼氏がバンドをやっていて、姉が聴いていたCDを聴き、唯一無二な存在になりたいと小学生から思っていた」

 高校の文化祭で、カルメン・マキのコピーバンドを組むことになり、ロックバンドの世界に足を踏み入れた。練習のスタジオを貸し出していた楽器店の店長にスカウトされてSHOW―YAの前身となるバンドに加入。ただ、当時は「女のバンドには絶対に入りたくなかった」と振り返る。

 「当時、年上の女の人が嫌いだった。よくいじめられていて。女性だけのバンドは信用できないし、絶対にいじめられると思った」。ただ、その心配は杞憂(きゆう)だった。「みんな本当に純粋に音楽が好き。とにかく練習熱心。ファッションや男の話はしたことがない」と懐かしむ。

 ひたむきに音楽に向き合っていた寺田は、バンド名を現在の「SHOW―YA」に改め、1982年にヤマハ主催のバンドコンテストのレディース部門で最優秀グランプリバンドを受賞。ただ、なかなかデビューにこぎ着けることができなかった。

 「出産と子育てをしながら仕事をするような環境がない時代。なかなかレコード会社とか事務所が決まらず、コンテスト優勝後もライブハウスで活動していた」。デビューできない日々に焦燥感を募らせ、抜け駆けを考えたこともあったという。「私はとにかく歌で世の中に出たかった。なかなかデビューができないことに気がついて、『スター誕生!』に1人で応募した。第1次審査落ちだったけど、『女性バンドで、ロックで売れてやる!』って心に誓った」

 その後、メンバー変更と下積みを経て、「SHOW―YA」は85年に「素敵にダンシング(Coke Is It)」でデビュー。ただ、当時は売り出し方が分からずに迷走。今では考えられないポップな衣装に身を包み、世に出た。

 「メンバーはもっとロックしたいと思ってたかな。私としては『テレビで歌が歌える』『SHOW―YAをみんなに知ってもらえる』と思ってうれしかった」

 デビュー後は音楽番組などに露出する機会が増えたが、曲は売れず。「私が目を引くことができない(キャラクターだ)から人気が出ないと思った」。髪形や衣装など、4年以上も悩み続けた。

 殻を破ったきっかけは、米ロサンゼルスでレコーディング中だった24歳の時。現地スタッフに悩みを相談したところ「アメリカでは30歳を過ぎてからがロックアーティストのスタート。お前はあと6年間も勉強できる」と言われ一念発起。浴室で自分の下着姿を見て「これだ!」と思い立ち、下着に鋲(びょう)を施した。セクシーで格好いいSHOW―YA誕生の瞬間だった。

 楽曲でも89年に代表曲となる「限界LOVERS」が大ヒット。「ここまでしてダメだったら、もう終わりぐらいの覚悟もあった。下着姿でテレビに出てもいいと吹っ切れた。『この曲は絶対売れない』と周りから言われてた中、『昭和シェル石油』のCMソングで正月も毎日のように流れた。音楽も新鮮で、時代と私たちのマインドが一致した」

 同じ女性バンド「プリンセス プリンセス」の影響も大きかった。「最初にかわいいプリプリが売れて、硬派なSHOW―YAが出てきた感じ。その対立で取り上げてもらう機会も多かった。ファン同士は仲が悪かったけど、お互いのメンバーは仲が良かった」

 人気絶頂を迎えた中、91年に寺田がバンドを脱退。激しいヘッドバンギングで首の骨が削れ、喉にはポリープが複数できた。「自分の体や、メンバーが海外進出を望んでることを考えて、自分の役目は終わったと思った。メンバーと感覚がズレていた」

 脱退後は音楽を完全にやめ、一般企業に就職して結婚も考えていたという。ただ、「歌手は自分の天職」と92年にはソロデビュー。メンバーからは「裏切り者扱いされていた」こともあり、SHOW―YAに戻ることはないと思っていたが、95年の阪神・淡路大震災の被災地を見て考えが変わった。

 「チャリティーライブでお金を集めて届けたいと思った。お金を集めるには、やっぱり看板ってすごく大事だったから、SHOW―YAとしてチャリティーをやりたいと思ってメンバーに声をかけ始めた」

 2005年に再結成するまではメンバーに頭を下げる日々だった。「すごく断られたけど、あきらめられなかった。最後は私の泣き落とし。大泣きしたら『やらないと言ってないでしょ!』って。体力や年齢的にも再結成した後を考えたら、05年がリミットだった」

 困難を乗り越え、バンドは40周年に突入したが、見据えるのはバンドの“還暦”だ。「20年後に対バンライブをやろうと誘われていて。私たちはみんな80歳。生きているのかな。周りは『恵子さんは死なないから』って。夢があって楽しい」

 相手はまだ明かせないとしたが、女性バンドだという。「女性バンドは華やかで、しなやかで、かわいい。(魅力は)そこかな」。今日もSHOW―YAは女性にこだわり、未知の世界を開拓し続ける。

 ◆SHOW―YA(ショーヤ)メンバーはボーカル・寺田恵子、リーダーのキーボード・中村美紀(64)、ドラムス・角田mittan美喜(60)、ベース・仙波さとみ(61)、ギター・五十嵐sun―go美貴(61)。1985年メジャーデビュー。91年2月に寺田が離脱。ステファニー・ボージャスをボーカルとして再スタートも、98年9月にバンド活動を終了。2005年にデビュー時のオリジナルメンバーで再結成。

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