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倒し屋・苗村修悟 児童養護施設で運命の出会い 平成のKOキング・坂本博之会長と目指す王者への道

スポーツ報知 2024年9月7日 7時0分

 東京・荒川区の西日暮里駅近くにある小さなジムから待望の日本ランカーが誕生した― 日本フライ級12位・苗村(なむら)修悟(30)。「平成のKOキング」坂本博之(53)が会長を務めるSRSボクシングジムの出世頭だ。苗村は坂本を慕って20歳の時にジムに入門。2人は児童養護施設で育ったという共通の過去を持つ。「後楽園ホールのヒーローたち」第14回は、ジム開設15年目で初の日本ランカーとなった苗村に、坂本と目指すチャンピオンロードを聞いた。(取材、構成・近藤英一)=敬称略=

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 遅れを取り戻そうと来る日も来る日もロードワークをして、仕事をして、ジムワークをする。30歳になった苗村は、遊ぶことを忘れ、この3項目だけを繰り返す毎日を送っている。

 「この5年間はボクシングのことだけを考えて生活してきました。生活はぎりぎりですが、すべてはボクシングのためですから」

 単純な毎日。それでも充実感がある。20歳で坂本を慕ってジムに入門したが、練習のために、付き合いだしたばかりの彼女との時間を削られるのが嫌だった。「ボクシングを辞めよう」。ジムにはすぐに行かなくなった。それから3年。彼女と別れ、何もすることのない自分に嫌気がさした。

 「もう一度、ボクシングにチャレンジがしたい。坂本会長の下で頑張りたい」。一度は投げ出したボクシング。それでも恐る恐るジムに顔を出すと、そこには3年前と同じ風景があった。坂本からかけられた言葉は今でも鮮明に覚えている。

 「おー、来たか。待ってたぞ」

 涙をグッとこらえた。何も言わずにジムを飛び出し、文句のひとつも言われて当然だが、温かい言葉が待っていた。「神様って本当にいるんだ」。当時23歳、心を入れ替え25歳でプロデビューした苗村だが、“神様・坂本”との出会いは小学校6年、12歳の時だった。

 苗村は生まれてすぐに母親が病気で子供2人を育てられないという理由から、双子の兄と乳児院に預けられ、2歳から18歳まで千葉・旭市にある児童養護施設「滝郷学園」で育った。父親に会ったことは一度もない。小学校低学年時の夏休みには母親と会っていたが、会話した記憶はない。それでも母親と暮らすことを願い、周囲に伝えたが、その願いは最後までかなわなかった。

 「母親が自分と会ってもしゃべらないので、小さい自分は何をしゃべっていいのか分からなかった。母親にどう接していいのかも分からず、お互い感情がなかった。最後に会ったのは17歳の時。祖父の葬儀で喪主を務める母と会いましたが、自分が息子だということに気づいていなかった。会話もなかったです」

 そんな幼少期を過ごした苗村の前に坂本が現れたのは12歳の時。自らも児童養護施設で育ち、4度の世界挑戦を経験した坂本は、引退後に全国の施設を周り、園児に夢の大切さを伝えるボランティア活動をスタートしていた。2007年3月19日、滝郷学園の卒園式に招かれて講演、ボクシングセッションとしてミット打ちをしたのが2人の出会いとなった。

 「自分と同じ施設育ちで元プロボクサー。どんな恐ろしい人が来るのかとビクビクしていたんです。それがいざ会ってみたら、優しくて自信に満ちあふれている人で、漫画のヒーローみたいにオーラが出ていた。自分が思い描いている施設の先輩とは大違い。当時、強さに憧れがあったのでなおさらでした」

 グローブを握ると坂本の構えるミットめがけて思い切りパンチを打ち込んだ。坂本からはこんな言葉が返ってきた。

 「いいパンチ打つな。ボクシングやったことあるの? センスあるから、(ボクシングを)やりたくなったらおいで」

 褒められた経験の少ない少年には極上の言葉だった。そして一枚の名刺を渡された。坂本の肩書は引退直後で会長ではなく、元所属先のトレーナーだった。その名刺は真っ茶色に変色する23歳までの11年間、苗村の財布の中に大事にしまわれていた。

 「23歳の時に仕事先で(財布を)盗まれたんです。あの名刺が無くなったことは本当にショックでした」

 ボクシングをやりたくても当時の施設の生活は「すぐにやりたいことができる環境にはなかった」。18歳で卒園すると地元の水産加工会社に就職。2年間で150万円をため、会社の先輩にプロボクサーになりたい気持ちを打ち明けた。坂本に名刺をもらったことを告げると「めちゃくちゃ有名なボクサーだぞ」と先輩は夢への背中を押してくれた。一緒にジムまで足を運び、プロ志望であることを伝えてくれた。

 アマチュアでの経験がない中、25歳でのプロデビュー。遅いと思われて当然だが、その遅れを猛スピードで取り戻している。ファイトスタイルは打って、打って、打ちまくる。10戦8勝(8KO)2敗。戦績が示すように勝ちはすべてKOという倒し屋。乱打戦に引きずり込み、強引にパンチを打ち込む。そのスタイルは一見、破壊力満点のフックで対戦相手をねじ伏せてきた坂本に通じるものがある。が、考え方は変わりつつある。昨年10月のフー・ロンイー(中国)とのフライ級8回戦。打ち終わりをことごとく狙われ、初めて痛恨のTKO負け(3回)を経験した。

 「打った後に同じ位置にいないで頭や体を動かす。パンチはコンパクトに、ディフェンスを意識」打つことばかりの考えを改めた。さらに「どんな時でも冷静でいられる心。ジムの座右の銘でもある『不動心』でいられるか」と、熱くなる中でも冷静さを保つメンタルの強さを求めた。その効果か、6月の再起戦は初回TKOという内容で勝利を飾っている。

 師弟の絆はまさに「不動心」にある。苗村がジムの座右の銘と口にした「不動心」は、坂本が現役時代からモットーとしているものだ。偶然にも苗村が育った「滝郷学園」の座右の銘も「不動心」。坂本が同園を訪れた際、石碑に刻まれた「不動心」の文字を目にして驚き、何か特別な縁を感じたという。

 熱くなり過ぎずに冷静に戦うことを心がける苗村だが、そのファイトは正直、荒々しい。それは心の奥底に宿った反骨精神が少なからず関係しているようにも思える。施設での生活では当時、先輩からこう諭された。

 「一般家庭の子供たちは親から、施設の人間とは付き合うな、関わるな、と言われている。だからこそ一般家庭の人間にはなめられちゃいけないんだ」

 色眼鏡で見られることが悔しかった。見えない境界線が嫌だった。だからこそ、負けたくない、強くなりたい、という気持ちは人一倍強い。その荒々しいファイトスタイルこそが、苗村の心の叫びに思えてならないのだ。

 坂本はジムにいる人間をファミリーと考える。その中でも苗村には特に運命的なものを感じている。「小学生の時に施設で名刺を渡して、それを頼りに8年後の20歳の時に自分を訪ねてきてくれた。普通の出会いじゃないよね」と笑う。一度は裏切るような形でジムを離れた苗村が戻ってきた時には「本当にうれしかった」と喜ぶ。何に悩んでいるのか、何を求めているのか。同じ境遇で育った人間だからこそ、分かり合える部分があるのだという。

 どんなボクサーになりたいか―。苗村は迷わず言った。「目指すのはチャンピオンですが、お客さんを熱くする選手になりたい。毎試合、これが目標です」と。望むものはファンを熱狂させるファイト。それは現役時代の坂本の姿にダブる。映像でしか知らない苗村はこう続けた。

 「もちろん会長のような選手になりたい。ボクサーとしてもそうですが、一人の人間としても尊敬していますから」

 家族という存在に憧れ20代前半までは家庭を持つことに強いこだわりを持っていた。それが今では「その気が無くなりました。今はボクシングに集中です」。坂本と密接に過ごしたプロデビューからの5年間は、人生の方向性を決める重要な時間となった。10月8日(後楽園ホール)、富岡浩介(RE:BOOT)を相手にプロ11戦目となるフライ級8回戦を行う。アマ経験者が当たり前になりつつあるプロの世界で、20歳からグラブを握った純度100%のたたき上げボクサー。

 「アマチュア経験者のようにきれいでスタイリッシュなボクシングは出来ない。だから気持ちで戦うんです」

 荒々しく、自分らしく。熱いリングに期待したい。(近藤 英一)=敬称略

 ◆苗村 修悟(なむら・しゅうご)1994年9月1日、千葉県松戸市生まれ。20歳の時にSRSボクシングジムに入門。2019年9月に1回TKOでプロデビュー。翌年、東日本新人王決勝戦で宝珠山晃(三迫)に判定負けしてプロ初黒星。2024年7月にフライ級で日本ランキング入り。戦績は10戦8勝(8KO)2敗。身長160センチの右ファイター。

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