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小学生で野球に興味も「野球道具を買うお金がない」と父にはぐらかされ相撲の道へ…新大関・大の里の軌跡(上)

スポーツ報知 2024年9月24日 7時0分

 秋場所を制した関脇・大の里が昭和以降最速の所要9場所での大関昇進を確実にした。スポーツ報知では「ちょんまげ新大関 大の里の軌跡」と題して、強さの源流に3回連載で迫る。第1回は誕生から小学生時代。

 2000年6月7日。角界の大器、大の里は4060グラムで中村家の長男として誕生した。母・朋子さん(48)が「(名前は)タイキよりダイキにしたかった」と考え、漢字も画数の良さから「泰輝」と命名された。

 実は最初に興味を持ったのは野球だった。大の阪神ファン。小学校に入学してすぐに、父・知幸さん(48)に「野球がしたい」と伝えた。だが、全日本青年相撲選手権団体で優勝経験があった父は、息子にはまず足腰鍛錬のため、土俵に立ってほしかった。父から「野球道具を買うお金がない」とはぐらかされ、導かれるままに石川・津幡町少年相撲教室へと向かった。もちろん、「お金がないというのは口実」と知幸さん。稽古は週2回で1日2時間だった。大の里少年は「最初は嫌々だった」と泣きながら、まわし姿になった。

 小学校でも背の順は常に一番後ろで、同世代より二~三回りも体格が大きかった。気がつけば北信越大会では敵なし。すっかり野球熱は冷め、相撲にのめり込んだ。地元で開催された高校相撲金沢大会にも足を運び、最前列で必死にメモを取った。

 小5からは、高校を卒業したばかりで当時120キロあった同教室の長井恒輝コーチ(32)=現監督=を相手に、突き押しを磨いた。一方で、小6時の全国わんぱく相撲では、パリ五輪の柔道男子で銀メダルの村尾三四郎(24)に5回戦で負けるなど伸び悩んだ。すでに身長176センチあった大の里少年は「甘い環境を捨てないといけない」と、誘われていた新潟・能生(のう)中への“留学”を決めた。

 だが、地元の石川・津幡町は相撲どころで知られ、少なからず周囲から反発の声も聞こえてきた。長井氏は「小6で相撲の世界で食っていくと決めた。稽古と同じように食らいつくタイプだから」と快く送り出した。旅立ちの日、小学校の友人13人が自宅に来て見送ってくれた。必ず強くなる―。不退転の決意で新潟へと向かった。

(山田 豊)

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