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【齋藤彰俊ヒストリー《6》】新日本プロレスと抗争勃発…11・17愛知県体育館「引退試合」

スポーツ報知 2024年11月6日 12時0分

 プロレスリング・ノアの「TEAM NOAH」齋藤彰俊が17日に愛知・名古屋市のドルフィンズアリーナ(愛知県体育館)で引退する。空手家からプロレスへ転身しデビューは1990年12月20日、愛知・半田市民ホールでの「パイオニア戦志」。以後、新日本プロレスで「平成維震軍」などで活躍し一気にトップ戦線へ食い込むも退団。2年間、リングから離れ2000年からノアに参戦し09年6月13日には、リング上で急逝した三沢光晴さん(享年46)の最後の対戦相手となる過酷な運命も背負った。当時は、一部の心ない人々から激しい誹謗(ひぼう)中傷を受けたが逃げることなくリングに立ち続けファンから絶大な支持を獲得した。今年7月13日の日本武道館大会で潮崎豪に敗れ引退を決断した。スポーツ報知では、波乱万丈だった34年あまりのプロレス人生を「齋藤彰俊ヒストリー」と題し引退試合の17日まで連載。第6回は「新日本プロレスと抗争勃発」

(福留 崇広)

 1991年11月、「世界格闘技連合W★ING」が旗揚げ戦からわずか3か月で分裂。齋藤は、新団体「WMA」(世界格闘技連合)の設立へ準備をしていた。そんな慌ただしさに追われた年末の12月。空手「誠心会館」に在籍する同門の友人から電話がかかってきた。受話器越しに興奮した口調で伝えた内容は、大まかに再現するとこうだった。

 「プロレス会場の控室で小林邦昭に殴られた。どうしても収まりがつかない。仕返しに行く」

 友人が齋藤に告げた「殴られた」との経緯は以下の通りになる。91年12月8日、新日本プロレスの後楽園ホール大会。当時、「誠心会館」館長の青柳政司は、90年6月12日に福岡国際センターで行われた獣神サンダーライガーとの異種格闘技戦での激闘が評価され、新日本に参戦していた。この日の後楽園で、青柳は小林邦昭、獣神サンダーライガーと組み、ヒロ斎藤、保永昇男、ネグロ・カサスと対戦した。

 騒動は試合後の控室で起きた。青柳のセコンドについていた「誠心会館」の弟子が控室のドアを閉め忘れた。目の前にいた小林は、扉を開け放したことをわびることない態度に憤慨。顔面を殴打したのだ。後に小林はこの制裁を私の取材に「ドアを閉め忘れたのに、謝罪もない。礼儀がなっていなかったから『ちゃんと閉めないとダメだろ』と教えただけです」と打ち明けている。

 ただ、この一方的な制裁を受けた本人は、憤慨し齋藤に電話で興奮したまま連絡してきた。この友人は、中京高校で同じ水泳部だった。さらに高校時代に齋藤自身がリーダーを務め課外活動を行っていたチーム「新撰組」のメンバーでもあった。部活での苦楽を共にし、さらに放課後も活動していた友人が「小林邦昭」に殴られた。そして仕返し予告に齋藤の胸は、ざわついた。

 事態はさらに加速する。友人を含む「誠心会館」の数人の空手家が小林を報復する実力行使に出たのだ。12月16日、大阪府立体育会館。会場入りする小林を「襲撃」。ケガを負った小林は、予定していた試合を欠場する事態に追い込まれた。そして、ここに「新日本プロレス」と「誠心会館」の抗争が勃発したのだ。

 「大阪で襲撃した時、自分は行っていません。ただ、あとから友人から『やってやったぜ』と報告を受けました。ただ、これが新聞記事にも大きく出て、事がどんどん大きくなっていきました。小林さんにやられた彼は、会社員だったので、これ以上は踏み込むことができない状況になったんです。それで『じゃあ、自分が出て行く』と決断しました」

 そして新日本プロレスのフロントから齋藤に電話が入る。

 「その方から『東京ドームの6万人の前で挑戦状を読むぐらいの根性があるなら挑戦を受けてやってもいいぞ』と言われました。その言葉が本気がどうかは、わかりませんでしたが自分は『分かりました』と即答しました」

 挑戦状は自ら毛筆でしたためた。そして年が明けた92年1月4日。齋藤は「誠心会館」の同志と空手道着に身を包んで東京ドームのリングに上がった。この大会は、参院議員だったアントニオ猪木が馳浩と一騎打ちし、メインイベントでグレーテスト18クラブ王者の長州力とIWGPヘビー級王者。藤波辰爾が「2冠統一戦」で激突し超満員札止め6万人(主催者発表)がドームを埋め尽くしたメガ興行だった。新日本プロレスのファンが埋め尽くした第2試合後。齋藤は挑戦状を読み上げた。

 「花道からすさまじいブーイングを浴びながらリングに上がりました。ただ、その時は、同級生の敵討ちと思っていたので、この6万人全員が敵なんだ、とさらに怒りが高まったことを覚えています。仲間がやられたとあって自分の顔も怒りで目がつり上がっていたと思います。完全に殴り込みでドームへ行きました。ただ、今、振り返れば、新日本のファンからすれば、当時の自分たちはまったく得体のしれない存在で、そんなヤツらがリングを占拠し、偉そうに挑戦状を読んでいるからブーイングも当然で気持ちはわからないでもありませんが(苦笑)」

 リングを占拠した挑戦状。ファンだけではなく新日本のレスラーも激高していた。

 「後から聞いたお話なんですが、この時、新日本の選手は自分たちが来ることを知らなかったそうです。あれだけのメジャー団体の選手ですから、まったくしらない連中がリングを占拠して『こいつら誰なんだ!何を言っているんだ!』とすごく怒っていたそうです。ですから新日本の選手もまったく無名だった自分たちと試合をやるとは思ってなかったはずです」

 ただ、齋藤は、新日本のフロントからの要求を受け止めたドームへの殴り込みだった。実行したからには、試合を受けると確信した。

 「新日本のフロントは、ドームで挑戦状を読んだら『受けてやってもいい』と言っていたので、約束通り読んだから受けるだろうと思いました。何より当事者の小林邦昭さんは、受けないわけにはいかないだろうと思いました」

 確信は現実になる。小林邦昭が齋藤の挑戦を受けたのだ。ただ、試合は、異例のシチュエーションが用意される。(続く。敬称略)

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