巨人からドラフト1位指名を受けた花咲徳栄・石塚裕惺(ゆうせい)内野手(18)の連載第2回は、挫折から飛躍を遂げた中学時代を振り返る。
念願の舞台はホロ苦い思い出になった。ロッテジュニアに選出され、目標としていた「NPB12球団ジュニアトーナメント」に出場。小学6年の石塚は決勝トーナメント進出がかかる一戦で先発マウンドを任された。しかし、初回に本塁打を浴びるなど6回5失点。「初の全国で舞い上がっていたかもしれない」。負け投手となり、打撃でも無安打に終わった。「自分のせいで負けて、悔しい思いをした。自分の力はたいしたことないんだなって」。上には上がいることを知った。
壁にぶつかり、負けず嫌いの男は燃えた。レベルの高いチームで勝負したくなった。中学では巨人・重信、DeNA・度会、日本ハム・田宮ら数々のプロ野球選手を輩出している硬式野球の強豪・佐倉シニアの門をたたいた。自宅から車で40分ほどの佐倉市の「長嶋茂雄記念岩名球場」で練習に打ち込んだ。「人数も多くて、競争も激しかったです」。引き下がらなかった。挫折が奮い立たせてくれた。小学生から続けていた素振り500回も継続。下級生時からスタメンを奪取。「全国を4回経験できた。得たものは大きかった」。充実の3年間だった。
順調な成長曲線を描きながら、学校生活でも転機があった。中学3年時。担任の先生の勧めもあり、体育祭の分団長(リーダー)を務めることになったのだ。積極的に先頭に立つタイプではなかったというが、練習や準備では仲間を引っ張った。「裕惺が言うなら」と、ついてきてくれた。体育祭当日。最終種目の対抗リレーでアンカーを務めたが、抜かれて敗れた。涙ぐむ石塚に仲間たちが寄り添ってくれた。「友達の存在がどれだけ大切か、あらためて身にしみて感じた」。リーダーとして成長できた気がした。
多くの強豪校から誘いがあった中で、埼玉・花咲徳栄への進学を決断。同校は17年夏の甲子園で優勝し、中日・清水や日本ハム・野村らプロ野球選手を輩出。「プロと甲子園に行きたいという思いが素直にあった」。迷いなく全国屈指の名門で挑戦することに決めた。
中学の卒業文集には壮大な夢をしたためた。
「プロ野球選手になり、活躍し侍ジャパンに選ばれて日の丸を背負って戦うという最終目標があります」
最終目標を達成するために高校生活での2つの誓いを立てた。「甲子園に行き、優勝すること」、「ドラフト1位でプロ野球選手になり、最終的な目標のスタート地点に立つこと」。大志を抱いて進学した強豪で、さらなる飛躍を遂げることになる。(宮内 孝太)=つづく=