大学ラグビー史に数々の名勝負を残してきた「早明戦」が12月1日、東京国立競技場で行われる。「荒ぶる」が代名詞の早大と「前へ」の明大が激突する。対抗戦の最後を飾る伝統の一戦は、今年で100回目を迎える。スポーツ報知では、両校の代表的なOBとして知られ、日本代表でも活躍した当時早大SHの堀越正己氏(56)と、明大の快足ウィング・吉田義人氏(55)の特別対談を連載。前編はともに出場し、死闘を繰り広げた1987年12月の「雪の早明戦」を熱く語った。
* * * * * *
吉田氏(以下、吉)「当時から、対抗戦の最終戦、12月の第一日曜日が国立での早明戦というのは決まっていて。明治には、最後は『早稲田に勝つんだ』という思いを受け継ぎ、積み上げてきた歴史がある。今年はその100回目ということで、キャプテンも大きな重責を背負い、チームを引っ張ってきたんだろうな、と。そういう思いです。チームの力を一つにし、永遠のライバル早稲田さんに挑戦してほしいですね」
堀越氏(以下、堀)「我々も、対抗戦は最後の明治戦にピークを持っていくという形を先輩たちから受け継いできました。早明戦に一度ピークを持ってきて、その後にもう一回、日本一を目指す形で。当時は早稲田のFWが弱く、巨大な明治さんを相手にどう戦うかとやっていた。ただ今年は、両校ともFWが大きくて早稲田も自信を持っているように見えます。時代が変われど、色々な意味で明治は宿敵。両チームとも頑張ってほしいですね」
伝説の一戦として語り継がれるのが87年、全勝の早大が1敗の明治を迎えた「雪の早明戦」。当時都心では、戦後初めて12月に初冠雪を記録した。吉田氏、堀越氏は共に1年生で先発出場。6万人が集った国立の景色は、37年たった今でも記憶に新しいという。
吉「その日は、深夜から雪が降ったんですよね。朝起きてカーテンを開けたら(出身の)秋田と同じ景色で。秋田では毎年、雪上でラグビーはするけど東京も雪が降るんだと。僕は、心の中でこれくらいならやれるだろうと思っていました」
堀「普通だな、という感覚だったんだ」
吉田「ただ、東京の人は雪が降ると外に出ないイメージが当時はあって。だからまず、国立競技場に着いて周囲の人の数に驚きました。今日、こんなに人が来るんだと。それと僕たちは(秋田では)雪を踏んで固めて、石炭をラインにして雪上でラグビーをしていたけど(当日は)雪かきがされていた。それも驚きでしたね。そして円陣を組んで、ロッカールームからグラウンドに『さぁ』と出て行った時の、あの声援。6万人の歓声は、今でも忘れられません」
堀「僕も吉田さんと同じ。実はあの時、秩父宮が改修工事をしていて、僕は国立で4度目の試合でした。ただそれまではお客さんが少なくて早明戦だからって、一杯にはならないだろうと思っていた。雪も降っているし。そして試合の日、ウォーミングアップ前に会場を見たら埋まっていない席もあってやっぱり、雪だから来ないかなと思っていました。ただアップが終わり、ロッカールームで円陣を組んで涙を流してグラウンドに出て行ったら、吉田さんと同じで。(旧国立は)すり鉢状になっているから、6万人の声が『ゴーッ』と体に響くような、地鳴りのような感じ。あの時、清宮(克幸)さんは『緊張して震えていた』と言うけど僕はワクワクして。ニタニタしていました」
タッチライン外には大量の雪、ぬかるんだグラウンドでキックオフ。試合は前半6分、早大のロック篠原太郎がトライ。明大は先制を許すが、“スーパールーキー”吉田がみせた。同20分、明大が敵陣でのスクラムからボールを出し、SO加藤尋久が左へキック。インゴール前で跳ねるボールへ、明大の11番は猛然と左サイドへ駆け上がった。
吉「トライの感触は、覚えていますね」
堀「くそー(笑い)」
吉「あの時、地面はぬかるんでいたけど、左のコーナーだけは水はけがよかった。ちょうどそこにボールが蹴られて、無我夢中で追っただけ。ボールが跳ねた所が水たまりだったら浮いてこないけど、ちょうどバウンドしたんです。合わせた訳ではないけど、無我夢中で走っていたら胸元に入ってきた」
堀「一生懸命やってる人に、楕円(だえん)球は味方するんですよね」
トライ直前、追ったボールに先に触れかけたのは早大のNO8清宮克幸。吉田氏のトライにつながった瞬時の攻防を、堀越氏が明かす。
堀「あの時、清宮さんは反則しているんです。ボールを捕ろうとしていなくて、はたいてタッチに出そうとした」
吉「あ、あれは、出そうとしたんだ」
堀「確か、片手で触っていて出そうとしていた。だけど、清宮さんが思う所にボールは跳ねなかった。ビデオを見てもそうだけど、吉田は全く疑いもなく、スピードを緩めず走って押さえた。すごいなと」
吉「思ったより、清宮さんが早くバッキングしていて交錯しそうな感じだったので、そっち(内側)に行かずに。ただまっすぐ走っただけ。そしたら、ボールがここに来た、という感じでした」
堀「でもあのトライは、僕もすごく悔しくて。本当は、自分がカバーしないといけない場所だったんです。早稲田のルールでは。でもスクラムからボールがこぼれかけて、SHの安東(文明)さんが投げづらそうにしていたから、後ろに戻らずにボールに行ってしまった。そしたら(SO)加藤さんに渡って、確か左足で蹴って。あの人、左足は得意ではないのに」
吉「そうなの? よく知ってるね(笑い)」
堀「高校(熊谷工業)が一緒なので(笑い)。だから本当だったら、僕がいないといけないところでライバルにトライを取られた。もう、悔しくて仕方がない。『くそーっ』っていう感じでした」
試合は早大がWTB今泉清(1年)の2本のPGで10―7とし、攻守が激しく入れ替わる展開。雪と汗を吸って重くなったジャージーからもうもうと湯気が上がる。ロスタイムの最終盤は、明大が自慢の重戦車FWで攻め続け、早大FW陣も体をぶつけ前進を食い止める。早大のインゴール前であと1メートルを巡り攻防が展開された。
吉「明治の(NO8)大西一平キャプテンが、とにかく特攻隊長かのように『俺が行く』と。明治は、キャプテンが全て。BKにはボールが回ってこなかった(笑い)。最初は『ボール出せ!』って言ってたんですけどね。20分くらいまでかな。でも、出てこないので。寒くてしょうがなかったけど、見ていてうわぁ、すげえなって」
堀「スクラムの時は、湯気が出ていたよね。僕は近くにいながら聞こえていないけど(フランカー)神田識二朗副将と、清宮さんが言ってるんですよ。『一平、来いよ』って。『来いよ、来いよ』ってあおりながら、スクラムを組んでいる。あの局面は、すごかったですね」
吉「でも大西キャプテンもすごかったけど、早稲田のタックルがすごかった。(タックル時、相手の進行方向に頭部がある)逆ヘッドも当たり前。それくらい身をていして守っていたから、力では太刀打ちができなかった。普通、ゴールラインに迫れば、大西一平キャプテンはトライを取る選手なんだけど。それくらい、早稲田の守りが堅かった。魂のぶつかり合い。もう、魂と魂、意地の張り合ってというか、そういう試合でした」
ユニホームは泥にまみれ、背番号が見えなくなるまで死力を尽くした「雪の早明戦」。あと1メートルでインゴールを割らせなかった早大が10―7で勝ち、5年ぶりの対抗戦優勝を果たした。“スーパールーキー”対決は、赤黒のジャージーに軍配が上がった。(後編に続く)
<堀越正己>(ほりこし・まさみ)1968年11月27日、埼玉・熊谷市生まれ。56歳。熊谷工でラグビーを始め、3年時に全国大会準優勝。87年、早大に入学。同年度日本選手権で東芝府中を破り、日本一。2年時に日本代表初キャップ。91年に神戸製鋼入社。94年までの日本選手権V7に貢献。99年に同社を退社し、立正大ラグビー部監督に就任。日本代表キャップは26。91、95年のW杯出場。160センチ、65キロ(現役時)。
<吉田義人>(よしだ・よしひと)1969年2月16日、秋田・男鹿市生まれ。55歳。秋田工1年時に花園優勝。明大に進み19歳で日本代表初選出。4年時に主将で全国大学選手権優勝。卒業後は伊勢丹入り。世界選抜選出3度。2000年に仏1部コロミエへ入団し01年、三洋電機へ。03年にサニックスへ入団し04年引退。91、95年W杯出場など日本代表30キャップ。09~12年度に明大監督。現在は日本スポーツ教育アカデミー理事長。167センチ、67キロ(現役時)。