伝統の大学ラグビー早明戦は1日、対抗戦100回目を迎える。日本代表としても活躍した両校OBで当時、早大SHの堀越正己氏(56)と明大の快速ウィング吉田義人氏(55)による特別対談の「後編」は、お互いが4年生になった1991年1月1月6日の大学選手権決勝が舞台。激闘を振り返り、後輩たちに熱いエールを送った。(取材・構成・大谷翔太)
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吉田氏(以下、吉)「高校時代は、早稲田が展開力があり華麗なプレーもする。僕がやりたいようなラグビーを国立の舞台でしているな、かっこいいなと思っていました。ただ、縁あって明治に入り、北島忠治(元)監督の指導を受けた。同期では、高校日本代表で一緒だった堀越君、今泉(清)君、そうそうたるBKの選手が早稲田に行って、『堀越がいいらしいぞ』とか聞こえてきていました。早稲田を意識している訳ではないけど、そうせざるを得ない状況に持ち込まれるというか…。早明戦の週は、周りがすごくざわつくんですね。テレビカメラが何十台も八幡山(東京・杉並区の明大グラウンド)に来る。『これはただ事じゃないな』と。別に誰かに言われるわけではないけど、学生スポーツの対抗戦の最後に国立競技場で試合が組まれるというのは、やっぱり特別。とにかく特別な試合なんだなということは、1年生ながらに感じていました」
堀越氏(以下、堀)「僕たちは『明治が宿敵だ』ということは先輩たちからも聞いていました。明治は(当時)19人がラグビー推薦で、しかも最低ラインが高校日本代表。一方、早稲田は『来る者拒まず、去る者追わず』でした。明治さんはご存じの通り『前へ』、我々は小さいBKで揺さぶって勝つという、ラグビーのスタイルも含めて対照的だった。大西鉄之祐(元監督)さんが、明治を体の大きな海外チーム、自分たちを小さな日本代表に見立てて、いかに小さいサイズで勝つかということをやっていたという話も聞いたことがあります。僕たちは(4年間の早明戦は)2勝2敗1分で、イーブン。そういう意味でも、他校との成績は覚えていないけど、明治との試合はおおよその得点も覚えているし、すごく印象に残っています」
両氏が在学中の早明は2勝1分2敗の互角。4年時は、主将としてそれぞれのチームを率いた。最後の対抗戦は24―24で引き分け、大学選手権決勝で明大が16―13で早大を下し全国制覇。対抗戦からつながるドラマが、そこにはあった。
吉「4年の時は対抗戦で決着できなくて、もう一度チャンスがあるとしたらお互い決勝に行くしかなかった。明治は、もう一回早稲田とやって決着をつける。その思いしかなかったですね」
堀「あの時、対抗戦では早稲田が勝ったつもり。明治は負けた感覚で。その思いの違いが、選手権で出たんじゃないかと、今になって思います」
90年12月の対抗戦。早大は、後半31分までに12―24とリードを許しながら、試合終盤に猛追して引き分けに持ち込んだ。追いついた早大は歓喜、追いつかれた明大は失望。選手権決勝でのみ再戦が可能だった明大の吉田主将は“雪辱”を誓っていた。
吉「大学選手権の準決勝で勝った後のインタビューでは『早稲田に勝ってほしい』と言っちゃった。(相手の)同志社さんには失礼だけど。でもそれだけ、早稲田に対して思いがあったんですね」
堀「もう、明治は怒ってるんですよ。リベンジだ、って。準決勝で(明治は)FWにけが人が出て最大のピンチが訪れるけど勝った。『待ってるから来いよ』っていう感じでした」
かくして両雄は、学生日本一を決める舞台でぶつかる。最大のハイライトは、明大が12―13で迎えた後半26分。センターライン付近右のラインアウトから、攻撃を展開。CTB元木由記雄からパスを受けた吉田が、一気に加速した。
吉「あの時、ボールを持った元木がハリーパスをしてくれたんです。元木は(相手との)間合いがなかったら突っ込んで相手をなぎ倒して、余裕があるときにパスをする。場面的に元木は自分で突破するところだったけど、パスしてくれて。自分の前がフリーでした」
左サイドを駆け上がる明大の主将。敵陣22メートルを前に、早大のFB今泉が迫ってきた。くしくも今泉は吉田にとって、引き分けた対抗戦で同点につながる80メートルの独走トライを許した相手。思いを胸に、必死に足を運んだ。
吉「対抗戦のラストプレー、僕は肉離れをしていて全然走れなくて。どうすることもできず、トライを決められてしまった。そういう思いもあって、心の中で『キヨシ、キヨシ』(今泉)と叫びながら外側で勝負しました。今泉は、今でも覚えてるって言うんですよ。『(タックルで)この指が、ここにかかった』って。僕は必死だったから覚えてないけど。そしてタッチラインギリギリを走っていたら、内側から(早大WTB)増保(輝則)がすっ飛んできた。ブレーキをかけて体を反転させた時に、明治のフォローが何人か見えたのでパスをしてもよかったんだけど…。なんだか分からないけど、そのまま行っちゃった。とにかく、今泉と勝負した時に『俺が行かないと』という思いで走っているので。あの走りは、自分の意思ではない。先輩たちの思いや観客の応援、何かが自分の体に乗り移った瞬間でしたね。それで、最後。最後に誰が(タックルに)来たんだと思ったら、今西(俊貴)君。ロックですよ。ロックの選手があそこまで。早稲田の選手の運動量は本当にすごかった」
堀「ちゃんと、褒めてくれるんだ(笑い)。ありがとうございます。あの時、郷田(正)が元木を見に行っている。それが見えたから、元木は多分ハリーパスをした。今泉が1対1で抜かれて、増保が飛んでいった。その後に石井(晃)というCTBがまた抜かれているから、(計)3人抜かれているんですよ。それで最後にそのロックがライン際をめがけて走って、一応タックルしているから早稲田にとってはすごくいいプレーなんだけど…。あそこで悔しいのは、僕が一回も(守備に)顔を出せていないんです。戻る守備は得意なのに、いないといけないのにいなかった。その後で同級生の(明大のNO8)富岡(洋)に聞いたら、北島先生から『堀越がいたら、一度サイドに当たれ』と言われてたって言うんですよ。そうすると確かに、僕が(カバーに)いないのは、当たられて、バッキングができない状況だった。1年の早明戦と同じように…吉田にトライされて、悔しい思いをしています」
約60メートルを激走した吉田の逆転トライで、最後は明大が有終の美。伝統校のプライドをぶつけあった4年間は、ノーサイドを迎えた。数々の名勝負を残してきた早明戦は、今年大きな節目。両氏は自身の経験を踏まえ、後輩たちへ熱い思いも秘める。
吉「大学ラグビーが日本ラグビー界を引っ張っていた、そういう4年間に在籍できたことは本当に幸せだった。学生という、青い春。青春まっただ中。そこで大好きなラグビーを、信頼できる仲間と『今日死んでもいいんだ』くらいの思いで戦えたことは幸せでした。後輩たちにも、今はとことん誠実に『今日は精いっぱいやった』と、自分、チームに誇れて相手チームに感謝できるような、そういうラガーマンになってほしいなと思います」
堀「僕は現役中は目の前のことに必死で。大学卒業後に、早稲田の伝統やジャージーの重みをより感じるようになりました。自分が着るジャージーには、いろんな人の思いがこもっています。試合に出られない選手が、前の日まで一生懸命練習をしている姿も見ているので、僕らとしては下手な試合はできません。試合に出る選手が、その思いに応える。出られなかった選手が誇らしい気持ちになるような、そういう試合をしてほしいと思います」
早大の17季ぶりの全勝Vがかかる100回目の「早明戦」は、12月1日、国立競技場でキックオフ。明大は、逆転優勝に挑む。=おわり=
<堀越正己>(ほりこし・まさみ)1968年11月27日、埼玉・熊谷市生まれ。56歳。熊谷工でラグビーを始め、3年時に全国大会準優勝。87年、早大に入学。同年度日本選手権で東芝府中を破り、日本一。2年時に日本代表初キャップ。91年に神戸製鋼入社。94年までの日本選手権V7に貢献。99年に同社を退社し、立正大ラグビー部監督に就任。日本代表キャップは26。91、95年のW杯出場。160センチ、65キロ(現役時)。
<吉田義人>(よしだ・よしひと)1969年2月16日、秋田・男鹿市生まれ。55歳。秋田工1年時に花園優勝。明大に進み19歳で日本代表初選出。4年時に主将で全国大学選手権優勝。卒業後は伊勢丹入り。世界選抜選出3度。2000年に仏1部コロミエへ入団し01年、三洋電機へ。03年にサニックスへ入団し04年引退。91、95年W杯出場など日本代表30キャップ。09~12年度に明大監督。現在は日本スポーツ教育アカデミー理事長。167センチ、67キロ(現役時)。