読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が19日午前2時、肺炎のため、都内の病院で死去した。98歳だった。巨人では1996年12月から2004年まで計8年間、オーナーを務め、強いリーダーシップを発揮。野球と巨人を愛し、球界再編問題やドラフト制度など、球界全体に大きな影響を与えた。葬儀は近親者で執り行う。喪主は長男、睦(むつみ)さんが務め、後日お別れの会を開く。
昭和、平成、令和と野球界をけん引したリーダーが、98歳でこの世を去った。読売新聞によると、11月末までは定期的に出社して役員会などに出席していたが、今月に入って体調を崩し、病院で治療を受けていたという。
渡辺氏は東大文学部を卒業後、1950年に読売新聞社に入社。政治畑でキャリアを積み、要職を務めていった。本格的に球界と関わりを持つようになったのは、副社長時代の89年に球団経営に参加するようになってから。96年12月からは巨人軍のオーナーに就任し、2004年まで計8年間務めた。もともと野球は詳しくなかったが、記者時代に培った取材力を生かし、徹底的に学習。野球協約を肌身離さず持ち歩き、その豊かな見識と旺盛な探究心に、多くの人が引き込まれた。
球界で絶大なリーダーシップを発揮した渡辺氏は、04年に近鉄とオリックスの球団合併に端を発する「球界再編問題」で、報道陣から当時の古田選手会長が「オーナー陣といずれ会いたいと言っている」と話を振られ、「分をわきまえないといかんよ。たかが選手が。たかが選手だって立派な選手もいるけどね。オーナーとね、対等に話をする協約上の根拠は一つもない」と発言。「たかが―」の部分が切り取られ、波紋を広げた。
他にもドラフト改革や1リーグ構想など幅広い知見を生かして積極的に声を上げ、球界の発展に寄与した。巨人への愛情と、球界を思う気持ちは人一倍強かった。対外的にアピールする意味も込めて、あえて刺激的な発言をするなど、球界のけん引役として抜群の存在感を放った。
今年3月、巨人を応援する財界人の集い「第32回 燦燦(さんさん)会総会」には車いすに座って登壇。「この2、3年どうも巨人軍の調子が悪くて成績の方も、少し残念なところはありますが、今年こそはひとつ頑張って優勝し、日本一に向けて頑張っていただきたい」と激励すると、チームはエールに応えるように、今季4年ぶりのリーグ制覇を達成した。10月の優勝祝勝会は欠席したが、山口寿一オーナーが「巨人軍日本一の祝賀会で皆さまにお会いできますよう、監督選手諸君、もうひと頑張りよろしくお願いします」などと渡辺氏のメッセージを代読。最後まで巨人の勝利を求め、球界の発展を願い、大きな足跡を残して旅立った。
◆渡辺氏の球界改革 93年に導入されたドラフトの逆指名制度やFA(フリーエージェント)整備に尽力。04年の球界再編時には、選手会の反対で実現はしなかったが、10球団1リーグ構想を示した。
◆渡辺 恒雄(わたなべ・つねお)1926年5月30日生まれ。東京都出身。東大文学部卒。50年読売新聞社入社。ワシントン支局長、政治部長、論説委員長などを経て、91年に代表取締役社長・主筆。02年、読売新聞グループ本社代表取締役社長・主筆に就任。04年に同会長・主筆となった後、16年から現職。巨人では96年12月にオーナー就任。04年に大学生投手への金銭授与問題で引責辞任。05年に取締役球団会長に就任し、14年6月から最高顧問を歴任した。このほか、01年から横綱審議委員会の委員長を務めるなど社外でも要職に就いた。