読売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡辺恒雄氏が19日午前2時、肺炎のため、都内の病院で死去した。98歳だった。
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【評伝】
渡辺氏のキャリアは、自民党副総裁や衆院議長を務めた大野伴睦(ばんぼく)との出会い抜きには語れない。番記者を務め、大野からは「ナベさん」と呼ばれた。8歳で父を亡くした渡辺氏も大野を「第二の父」と慕った。一記者の渡辺氏が閣僚名簿を読み上げたこともあったという。
大野との密接な関係を突破口に、政界内の人脈を広げていった。鳩山一郎の自邸「音羽御殿」では、幼かった孫の由起夫、邦夫兄弟を背中に乗せて“馬乗りごっこ”をしたことも。中曽根康弘とも勉強会などを通じて関係を深めた。
初めて球界と関わったのは1978年、江川卓投手のドラフトをめぐる騒動だ。社命を受け、法律的な事後処理に奔走。野球協約も熟読した。読売新聞社を統率する立場になった頃には、巨人の勝敗に一喜一憂するようになった。
球界が再編された2004年には「たかが選手」発言が注目を集めた。報道陣から、日本プロ野球選手会の古田会長がオーナー陣と会いたがっている、と振られて「分をわきまえないといかんよ。たかが選手が。たかが選手だって立派な選手もいるけどね。オーナーとね、対等に話をする協約上の根拠は一つもない」と答えたことが、世間からたたかれたのだ。渡辺氏は複数の自著で「酩酊(めいてい)していたとはいえ、まことに軽率だった」と自戒しつつ、「立派な選手もいる」と付け加えたことを取り上げないメディアを疑問視。取材のあり方に一石を投じる出来事となった。
世間からは「ナベツネ」と呼ばれた。12年にAKB48の高橋みなみと対談した際、「『たかみな』さんと呼ばれてるようだけど、僕は『なべつね』と呼ばれてるんだ。子供の頃は秋元(康)さんのような作詞家になりたかった」と明かしている。愛称がこれほど広く定着した新聞社の社長は、もう出てこないだろう。
生前の渡辺氏は、葬式について、無宗教の音楽葬とするよう遺言を残している。「渡邉恒雄音楽葬曲目集」なる約10曲を編集し、社の執務室に置いてあるという。お気に入りはチャイコフスキーの交響曲第六番「悲愴」。この曲に送られ、17年に死去した篤子夫人のもとへ旅立つ。(敬称略)=09、10年巨人担当キャップ・清水 豊=
【参考文献】
渡邉恒雄著「君命も受けざる所あり 渡邉恒雄 私の履歴書」(日本経済新聞社刊)
渡邉恒雄著「わが人生記 青春・政治・野球・大病」(中央公論新社刊)