初代タイガーマスクの佐山サトル(67)が主宰する「ストロングスタイルプロレス」(SSPW)が今年、旗揚げ20周年を迎える。
同団体は、佐山が新日本プロレスで空前の国民的ブームを起こした初代タイガーマスク時代に追求した「ストロングスタイル」の復興を掲げ2005年6月9日に後楽園ホールで「リアルジャパンプロレス」として旗揚げした。19年3月にSSPWへ改称し現在に至る。
20年の歴史の中で“過激な仕掛け人”新間寿会長(89)を筆頭に“令和の新仕掛け人”平井丈雅代表(60)ら様々なプロレス関係者が佐山の理想を支えてきたが、中でも旗揚げから佐山のマスク「タイガーマスク」を作り続けている「マスク職人」がいる。
プロレスマスクを製作・販売する「プロレス・マスク・ワールド」(東京・千代田区)を主宰する中村ユキヒロ代表(58)だ。2003年から「初代タイガーマスク」のマスクを作り続けて今年で22年。中村代表がプロレスマスク製作への情熱、佐山への思いなどを明かしてくれた。WEB報知では「マスク職人が明かす『佐山サトル』秘話」として3日連続で連載する。
三重県伊勢市出身の中村さんは、3歳のころから小児ぜんそくを患っていた。病の影響で小学校は、入院していた養護施設の小学部へ通った。気管支ぜんそくで入退院を繰り返した小学校から中学時代。それでも兄の頼長さんが大ファンだった映画スターのブルースリーに影響され、筋肉質の肉体を目指し体を鍛えた。しかし、中2の時に病が悪化し肺が破れ、6分の1を切除する手術で断念した。
「兄はブルース・リーが好きで私もその影響であんなカッコイイ体になりたいなと鍛え始めたんです。だけど、手術の影響でわきの下にメスを入れた痕が残ってしまったんです。それでやる気をなくしました」
失意の少年に光が差す。プロレスファンでもあった頼永さんから教えられたマスクマン「ミル・マスカラス」の存在だった。
「マスカラスをテレビで初めて見てビックリしました。あんな凄い筋肉の人間がこの世にいるのかと思いました。あの独特の筋肉美のシルエットにあこがれ、もう一度、体を鍛え直そうと決意しました」
光が差し込んだ時、さらなる衝撃が金曜夜8時のブラウン管から飛び込んできた。1981年4月21日、蔵前国技館。タイガーマスクの出現だった。
「びっくりしました。とてつもない身体能力と均整の取れた万能な体。そして何よりもあのマスクにあこがれました」
毎週金曜夜8時。テレビに映るタイガーマスクに心はわしづかみにされた。高校へ進むと、さらに肉体を強化するトレーニングにも熱が入った。
「高校生の時は、朝起きてから寝るまで…夢の中もタイガーマスク一色でした。今もあのころのときめきを持続させてる感じです。あの時で止まったままなんです。タイガーマスクにあこがれ、あこがれたから体を鍛え直して病気に耐えられる体になりました」
タイガーマスクへの憧憬が体を鍛え、3歳から悩まされ続けたぜんそくを克服した。それは人生が劇的に変わる出来事だった。
「もしもタイガーマスクと出会ってなかったら病気も治ってなかったと思います。ということは、今の私はいません。今、私が生きているのもすべてはタイガーマスクのおかげなんです」
後に佐山に弟子入りし格闘家となる兄の頼長さんは、タイガーマスクの格闘家としての動きに魅了されたという。しかし、弟のユキヒロさんは違った。
「僕が見ていたのは、マスクでした。だから、試合よりも『あのデザインのマスクがカッコ良かった』とか、マスクの記憶が残っています。そのころからタイガーマスクのマスクを『どんなデザインでどうやって作るんだろう』と研究していました」
ぜんそくの克服だけではない。マスク職人になる礎も、タイガーマスクによって培われた。当時、魅了されたデザインがある。それは、1983年夏「サマーファイトシリーズ」で着用した額の部分にローマ数字「3」がデザインされた「サードマーク」だった。このシリーズでタイガーマスクは、それまでとはコスチュームを一変し赤いパンタロン姿でリングに上がった。
「あの赤いパンタロンが好きでしたねぇ。入場するときもマントからジャンパーに変わったりして、サードマークのマスクがカッコ良くて…闘い方、身体能力にプラスしてビジュアルが凄かったですよ」
最高のデザインは、このシリーズの最終戦となる8月4日、蔵前国技館での寺西勇との一戦で着けた「サードマーク」だった。
「今でも一番好きなモデルは、寺西勇戦です。あのラストマッチモデルは最高にカッコイイです」
42年前の一戦に目を細めた中村さん。そして図らずも「ラストマッチ」と明かしたように、この寺西戦を最後にタイガーマスクは電撃的に引退する。83年8月だった。
「引退っていうワードで僕は、よく(1978年4月4日に解散した)キャンディーズと比べるんです。キャンディーズは『解散します』って宣言して解散したのでファンは、後楽園球場のラストコンサートまで心の準備ができたんです。だけど、タイガーマスクは違いました。突然、消えたんです。僕にとってそれは悲惨なほどの空虚感でした。自分の中の何かがなくなった感じでした」
16歳だった中村さんは、タイガーマスクの引退をきっかけに決意する。
「自分でマスクを作ろう」
(続く。福留 崇広)