元日本代表で、J3金沢のFW豊田陽平(39)が29日、金沢市内のホテルで現役引退会見を行った。プロ21年間で、Jリーグ通算500試合、162得点を挙げ、13~15年には日本代表に選出。22年からは地元の金沢でプレーしてきた。「僕自身、35歳あたりから、いつやめてもいいように取り組んできた。1日1日を後悔なく進んできたが、今回は急きょ、方針の転換になった。ここで終止符を打つべきかなと」と振り返った。
小、中学時代は目立った存在ではなかったと言い、高校時代で初めて県選抜に選ばれた。「そんな人間がプロになって、誰もが2、3年で帰ってくると思っていたと思う。いい意味で裏切りたいと歯を食いしばってやってきました」と話す。星稜高を卒業し、2004年に加入したJ1名古屋ではトップレベルのすごさを痛感。「助っ人外国人と肩を並べ、どうやって試合に出るんだろう」と戸惑いもあったが、ハングリー精神を発揮した。山形、京都を経て、10年に加入した鳥栖で才能を開花。11年に23得点を挙げてJ1昇格に貢献した。12~15年までJ1で15得点以上を挙げ、日本代表にも選出。「思い出深いのはJリーグ初ゴールや、山形や鳥栖でJ1に昇格できたこと。地域で喜んでもらえた景色が、今でも忘れられない。日本代表に選ばれたときも非常にうれしかったです」と懐かしんだ。
22年には生まれ故郷の石川県を拠点にするツエーゲン金沢に移籍。「いつかは金沢でプレーして恩返ししたいと思っていた。「加入したときは『遅いよ』という感じかなと思っていたが、(サポーターには)寛大に受け入れてもらった」と感謝する。22年は34試合、6得点、23年は23試合、2得点。引退も覚悟した24年は、5月にかかとを故障したが、9月末に復帰した。「コンディションも悪くなく、ボールフィーリングは良かった。38、39歳になっても、スプリント能力は若い選手に負けないくらい出していた」と手応えをつかんでいた。
「もう1回、勝負したい」と、25年も現役続行を決めていたが、鳥栖からの呼びかけに方針を急きょ、変更。「窮地のチームから『助けて欲しい』と言われて心に刺さった。(満足にプレーできなかった)悔しさで1年間続けるよりも、その先のことを見据えた。お世話になったクラブにしっかりと応えたい」と熟考の末に引退を決断。今季からは鳥栖のスタッフに就任することになった。
現在、北信越リーグ1部に所属するSR Komatsuの代表を務めるほか、石川県の観光大使にも急きょ、任命された。今季の背番号19は、石川県の19市町村を背負うという気持ちを込めていた。「自分が出来ることは限られるかもしれないが、石川県のために頑張っていきたい気持ちは変わらない。石川県からトップ選手が生まれていって欲しい」と豊田。感謝の気持ちを込め、今後のサッカー界の発展をアシストする。(中田 康博)