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吉田義男さんと広いパリで偶然出会い、その場でインタビュー「それは奇跡ですな」

スポーツ報知 2025年2月5日 6時30分

 プロ野球・阪神で遊撃手として活躍し、1985年には監督として初の日本一にチームを導いた吉田義男さんが91歳で亡くなった。五輪、プロボクシングなどを中心に取材し、野球に携わったのはわずか1年しかない私だが、吉田さんは私にとっては“奇跡の人”だった。

 願い続ければ夢はかなう―。それが現実となったは1994年5月末のことだった。その時、確かに一生分の“運”を使い果たしたと思った。

 私は当時、全仏オープンテニス取材のため、パリに滞在していたが、その大会で期待されていた日本人選手たちは次々と敗退。2回戦までに全員が姿を消した。事前取材をみっちりして臨んだ大会取材だったが、それを生かすことなく、会社からは無情にも「日程を1週間早く切り上げて帰国しろ」との指令が…。経費削減のためには致し方ない。「なんて運のない…」。自らの運のなさをのろいながら、トーナメント取材もそこそこに、ルーブル美術館近くの旅行社に行って帰国便を変更した。せっかくパリまで来たのだから、何か“お土産”を持って帰らないと…。記者魂に突然、火がついた。

 近代五輪100年の記念大会となったアトランタ五輪まで2年というタイミングで、フランスの五輪競技に関係する選手や団体を取材しようと思ったが、ツテがない。その時、ふと頭に浮かんだのが野球のフランス代表監督に、元阪神監督の吉田さんが就任していたことだった。それまではプロ野球などはほとんど取材したことがない。ましてやアマチュア野球に人脈もなく、場所はフランス。フランスの連盟に連絡のつけ方さえ分からない。この広いパリで、どうやって吉田さんを探す? 日本に電話して野球部の誰かに連絡先を聞こうと思ったが、時差があって日本は真夜中。「やっぱり無理だな…」。諦めて近くの日本料理店(確か大阪が名前についていた店だった)に入ってラーメンを食べて帰ることにした。

 日本から遠いパリで、おいしいラーメンを堪能して、ルーブル美術館を背にパレ・ロワイヤル付近をあてもなく歩を進めていくと、前から日本人らしき紳士が歩いてくる。近づくにつれ、テレビで見たことのあるような体つき…まさか。だが、まさに、そのまさかだったのだ。なんと私に向かって歩いて来たのは吉田さん、その人だった。私は駆け足で近づいて「吉田さんでいらっしゃいますよね?」と恐る恐る尋ねると「はい、そうですけど…」。その瞬間、私は1オクターブ高い声で「お探し申し上げておりました!」。事情がつかめず、目をパチパチする吉田さんに、これまでのいきさつを話し、ずうずうしくもチャンスがあったら吉田さんを取材したいという思いがあったことを伝えた。

 事情をようやくつかめた吉田さんは「それは奇跡ですな…」と一言。「はい、奇跡です!」と、私も子供のようにはしゃぎたい思いをぐっとこらえて笑顔で返した。「そうですか。これも何かの縁。それなら、お話ししましょう」と吉田さんはその場で取材を受けてくださったのだ。なんでも、奥様と近くのデパートに買い物に来て、ラーメン店の近くの駐車場に止めていた車をピックアップする途中だったという。吉田さんは車でデパートまで戻り、奥様を乗せてわざわざ戻ってきてくれた。奥様が再び車を駐車場に止めに行く間に、私は近くのカフェで吉田さんの話を伺うことがことができた。しばらくして戻ってきた奥様も“奇跡”に驚き、そして笑顔で私の取材が終えるのを待ってくださった。

 吉田さん率いるフランスは5月、パリで行われた世界選手権予選を突破し、念願だった夏の本戦(ニカラグア)出場を果たしたばかりだった。当時、欧州はオランダ、イタリアの2強をスウェーデンが追っていたが、そこに食い込むまでに吉田さんがフランスを強化したのだ。「やっとチームが勝つことに向けてひとつになった感じですね。選手それぞれの個性が強い国ですから、最初はバントへの理解もなかった。でも、チームプレーの大切さや勝つことが、自分たちにどれくらい必要か分かったようです」と目を細めて語ってくれた。フランスの地元紙はこぞって、吉田さんを「プチ・サムライ(小さな侍)」とたたえていた。「5年前(89年)からアトランタ五輪への計画を立ててきており、ようやく上位に安定してきた。それでも、実力は日本の高校生程度ですか…」と、わずか数十分前に出会ったばかりの私に見せた笑顔が忘れられない。

 吉田さんはフランスの野球事情や、毎日や阪神などで活躍した山内一弘さんが打撃指導をしてくれたこと、阪神やダイエー(現ソフトバンク)など5球団から練習用ボールを送ってもらったことなどを話してくれた。「これが本当に貴重なんです」とうれしそうだった。

 吉田さんは「来年(95年)夏の欧州選手権で勝って、アトランタに行きます。もしかしたら、アジア遠征するかも。そのときまでに、もっとフランスは強くなっていると思いますよ」と約30分のインタビューを結んだ。残念ながら、アトランタ五輪出場はかなわなかったが、吉田さんがパリにアパートを購入して本腰を入れて強化に努めた思いは着実に浸透していったようだ。2019年の「フランス国際野球大会 吉田チャレンジ」では、フランスが侍ジャパン社会人代表を下している。2011年、吉田さんの貢献が評価され、フランス野球・ソフトボール連盟の名誉会員に選ばれた。

 インタビュー後、吉田さんは私を車に乗せて、移動しやすい場所まで送ってくださった。奥様と一緒に手を振ってくださった吉田さんに、私は何度も頭を下げた。もしかしたら…フランス野球を本気で強くしようとする思いを伝えるため、広いパリで私と出会う奇跡は、吉田さんが起こしたのかもしれない。(記者コラム・谷口 隆俊)

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