2026年ミラノ・コルティナ冬季五輪は6日で開幕1年前を迎える。2006年トリノ五輪のフィギュアスケート女子で、アジア人初の金メダルに輝いた荒川静香さん(43)が5日までにスポーツ報知のインタビューに応じ、20年ぶりにイタリアの地で開催される五輪の展望を語った。「トゥーランドット」と「イナバウアー」で現地ファンの心をわしづかみにした当時を振り返ると共に、日本勢に「五輪は、自分を知ることの極み」と金言を贈った。(取材・構成=大谷翔太)
06年トリノ五輪。荒川さんは自身2度目の大舞台で、アジア初の金メダルを獲得した。フリーで演じたのは、オペラ「トゥーランドット」。イタリアになじみある演目で地元ファンを魅了し、ショートプログラム(SP)3位からの逆転劇。会場は最後のスピンから総立ちとなり、喝采を浴びた。
「ステップを踏みながら、これが私の競技人生最後の試合になる、と感じていました。それまでは(現役)最後がどこになるかは決めずに全力で進んできて、そこで悟ったというか…。スピンをして止まった時に滑りきった、全てが無事に終わった事への安堵感。喜びより、日本代表として結果を求められる中で役割を果たせたという安堵が、一番大きかった。それが今思えば、日本代表としての重圧だったのかな、と思います」
背中を大きく反らせて滑る「イナバウアー」は代名詞に。06年の流行語大賞にも選ばれた。帰国後の国内での反響は、荒川さんが「一番の成果」と何よりも充実感を感じるものだった。
「私にとって、記憶に残る演技をしたいということが、最大の目標でした。日本代表として五輪に行く以上、記録に残ることも大事。どんなスケートを五輪でしたのかという事を、大事にしたいと思いました。街中で『イナバウアーの人』と言われて、自分が五輪で何をしたのかを覚えてもらえたことが、一番うれしかった。(20年たって)いまだに『あの人』と言われると、イナバウアーを知っているんだと、ちょっと嬉しい。記憶として人に届いたというのは、最大の結果だったと思います」
当時24歳で挑んだ、2大会ぶりの五輪。荒川さんが「ルールとの戦いだった」と振り返るように、04年シーズンからは演技内容を細かく得点化する新たな採点方式となり、表現面で制約される側面もあった。イナバウアーは、得点化される「技」ではなない。ルール変更後、荒川さんも一時は封印していたが、五輪2か月前から組んだニコライ・モロゾフ・コーチの言葉をきっかけに“解禁”した。
「元々私は背中が柔らかく、当時習っていたコーチに『背中を反らせてみたら、ひと味違った表現が生まれるのでは』と提案をされて、やってみたのが最初でした。しかし今のルールに変わった時に、無駄な動作だなという気持ちになり、しばらくはやらなかった。やらないといけない技が多過ぎて、その中でイナバウアーを入れている余裕もありませんでした。ただ、2か月前に変わったコーチが、最後の振り付けをやった段階でしれっと、組み込んだんです。得点に重きを置いてきたモロゾフ・コーチでしたが『皆が見失っている中、技術力と芸術性を兼ね備えたフィギュアスケート本来のよさを、五輪だからこそ伝えるべきだ』と言い張った。その言葉に意外性もあって、イナバウアーを演技に戻しました」
コーチの変更に加え、フリーの演目が新たに「トゥーランドット」になったのも直前。開会式では三大テノール歌手の一人、ルチアーノ・パバロッティ氏が熱唱し、荒川さんも気持ちを高めたという。決して、イタリアだからこその選曲というわけではなかった。当時の荒川さんは、直感を大事にした。
「1月に(トリノの)現地で合宿を張った時に、初めて会場に行きました。その会場で曲をかけて練習した時に、フリーの曲をSPで使った方がいいかな、と。そうするとフリーの曲も変えないといけない、となった時に、思い浮かんだのが『トゥーランドット』でした。以前使ったことがあり、その時に曲との相性の良さを感じていて。『この会場に合いそう』とコーチに伝えると、すぐに曲を作り始めるようになって。コーチも、私が現地で感じたインスピレーションを大事に、一緒に進んでくれた。お互い時間がない中、最善を尽くすという共通の思いで進んでいました」
歴史を刻んだ五輪から20年。フィギュアスケートは様々なルール変更も経て、現在に至る。荒川さんが見る、現代のスケーターとは。
「技術点に得点、加点が一つ一つ与えられることによって、スケーターが技術的な面で完成度を追求する部分が促進されたと思います。以前はジャンプを跳べばOKだったところが、どう跳んだか、その美しさも求められている。ジャンプ、スピン、ステップ。一つ一つの技の完成度が、高い時代になっていると感じます」
総合力が求められる昨今のフィギュアスケート。競技の進化と同時に、課題として感じている側面もあるという。
「現代のスケーターは、全ての技の質が高い。その反面、個性としては出しづらくなってきているかもしれません。『誰の何』というところに印象が残った時代から、今は全てが上手い。そういう意味で、何か一つ個性で残す、記憶に残すということは難しくなっているかもしれません。『持ち味は何だろう』という事に対して、人の記憶に届けるということは難しい時代でもあるのかなと。その点が、今の時代の課題なのかもしれません」
記録だけでなく、人々の記憶に残る演技でつかんだ荒川さんの金メダル。20年を経て、日本代表は再びイタリアの地で戦う。代表入りを目指す選手たちには「楽しんでほしい」とエール。五輪前年となるシーズンの心構えも説きつつ、想いを込める。
「自分で思い描いたプランを、大事に過ごしてほしいと思います。五輪は特別視する大会。ただ自分自身が選手としてどういう性質を持っているかを知ることで、五輪をうまく戦うことが出来ると思います。私が五輪を通じて感じてきたことは、オリンピックとは自分を知ることの極み、のような場所。前の年に限って靴が合わないなど『何でこのタイミングで』と、普段起こらないようなことが起きたりもします。ちょっとした事に心が揺らぐのが、五輪シーズンの難しさでもある。いつも通りを目指さずに、その時々を楽しめるように。トラブルも含めて起こること全てを楽しめるくらいの気持ちで、挑んでほしいです」
◆06年トリノ五輪の逆転金メダル SPで荒川は66・02点の自己ベストをマークし、首位のサーシャ・コーエン(米国)に0・71点差で3位発進。トゥーランドットを演じたフリーでは、冒頭の3回転ルッツ―2回転ループの連続ジャンプを成功。後半にはイナバウアーからの3連続ジャンプを決めるなど、完璧な演技で125・32点をマーク。6200人のスタンディングオベーションの中、合計191・34点で逆転優勝。銀はコーエン、銅はスルツカヤ(ロシア)。
◆荒川 静香(あらかわ・しずか)1981年12月29日、東京・品川区生まれ。43歳。プロフィギュアスケーター。幼少時代は仙台で育ち、5歳からスケートを始める。小3で3回転ジャンプを跳ぶ。東北高1年の時に98年長野五輪出場。早大教育学部卒業後、プリンスホテルに所属。2004年世界選手権を制し、06年トリノ五輪でアジア選手初の金メダルを獲得。同年5月にプロ転向を宣言した。