広島テレビの被爆80年に向けた取り組み『ネバーアゲイン』のひとつが、被爆前後の白黒写真を、AI技術や戦争体験者との対話などをもとにカラー化する「記憶の解凍プロジェクト」です。広島テレビではこの取り組みに賛同して、被爆者の「想い・記憶」を次世代へとつなぎます。
被爆者で元教員の梶矢文昭さんと、広島テレビの庭田杏珠記者が対話をしながら、梶矢さんが兄姉5人で撮影した大切にしているたった一枚の写真をカラー化しました。梶矢さんの被爆体験と、カラー化を通してよみがえった姉との記憶や想い、貴重な話を聞きました。
姉が微笑んで死んでいた理由は…
被爆者の梶矢文昭さんは、毎朝こだわりのコーヒーを淹れて、リビングから広島市街を眺めるのが日課です。教員を務めてきた梶矢さんは、被爆体験を絵にして語り続けています。
■被爆者 梶矢文昭さん
「(姉が)死んだときに少し微笑んでいた。笑顔で死んでいた。これが謎で謎で、私の心にいつまでも残っての。」
梶矢さんが大切にしてきた被爆前の写真です。梶矢さんは5人兄弟の末っ子として生まれました。2歳年上の姉・文子(ふみこ)さんを原爆で亡くします。
■被爆者 梶矢文昭さん
「生きていたら、今88歳くらい。どんなおばあちゃんになっているのかなぁと想像します。」
伝承者として、あの日の足跡をたどる
梶矢さんは、被爆体験伝承者の活動をしています。被爆後に逃げた二葉の里周辺を、一緒に歩かせてもらいました。
■被爆者 梶矢文昭さん
「私が一生懸命ついて逃げた道を、ゆっくりぞろぞろと歩いてみましょう。」
姉と向かったのは、臨時の教室となっていた分散授業所でした。
■被爆者 梶矢文昭さん
「(家があったのは)一番向こうの通りでした。8月6日の日もですね、わたくしと姉が家から出て、こう通ってここを曲がるまで、 母が見送っていたのを覚えています。」
雑巾がけをしてバケツの水替えにどちらが行くか、喧嘩したあとのことでした。
■被爆者 梶矢文昭さん
「玄関がこちらで、庭がこちらにありました。ピカーーーと、それはものすごい光が襲ってきたのは、よく覚えています。」
梶矢さんは、九死に一生を得ました。しかし…
■被爆者 梶矢文昭さん
「姉の死体を見つけて、柱の下敷となっていた。柱を持ち上げて引っ張り出して、死体を担いで山のほうに逃げる。」
やがてたどり着いた二葉山のふもとで目にしたのは、変わり果てた光景でした。
■被爆者 梶矢文昭さん
「母親はうめいている。死んだ姉が横たえられている。目の前は練兵場、向こうは広島の街が燃え上がっている。」
姉は親元を離れ、疎開していました。原爆投下の2日前、母親が姉を訪ねたときのことでした。
■被爆者 梶矢文昭さん
「母親が夏に着替えを持っていったらしい。そうすると、その母親を見て「連れて帰って。連れて帰って。連れて帰って。」と一晩中離れなかったと言って。「うちは死んでもええ。死んでもいいから、お母さんといっしょがええ」と言って。」
自宅に戻ってきた姉。そのさなかの悲劇でした。母親は、姉を連れ戻したことを一生悔やみ続けました。
■被爆者 梶矢文昭さん
「(姉が死んだときに)少し微笑んでいた。笑顔で死んでいた。「母親と一緒におりたい、死ぬときは母親と一緒に死ねばいい」という、その思いを達したという小学校3年生の女の子の微笑みかなと。」
カラー写真でよみがえる姉の記憶
梶矢さんがずっと大切にしてきた、たった一枚の兄姉写真をカラー化することにしました。まずAI技術でカラー化し、さらに、当時の資料や梶矢さんの「記憶の色」をもとに修正を加えます。
■被爆者 梶矢文昭さん
「この色には記憶がある。ビロード状の服はね。」
■広島テレビ 庭田杏珠記者
「ここに飾りがあるなと思って。お正月の松と葉ボタンなのかなと思って。」
■被爆者 梶矢文昭さん
「私も今まで気がついていなかったけども。それはおそらく、松と葉ボタンよ。」
そして、被爆前の姉の晴れ着姿については…
■被爆者 梶矢文昭さん
「本人が好きというよりは、親が着せたがる。女の子の小さい子供には、赤系統を着せたがることが多い。」
梶矢さんの「記憶の色」をのせた写真を、見てもらいました。
■被爆者 梶矢文昭さん
「うわっ!うわっ!すごい。いや~、素晴らしいの。いつ死ぬかわからないお互いの運命の中で、正月にお互い精いっぱい着飾って写った一枚の写真で、お姉さんは優しかったのを思い出すの。本当に生き返ったような感じを受けます。」
■被爆者 梶矢文昭さん
「80年前のこの1枚の写真が、いまもなお、語り続けてくれている。」
梶谷さんは「この兄弟の中で、私だけが生きている。久々にこの写真を見て、兄弟に会えた気がする。こうした絵や写真から、具体的に想像してもらいたい。」と話していました。