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求められ続ける成長にさよなら とあるスタートアップが“値上げなし”でやっていけるカラクリ

ITmedia NEWS 2024年7月22日 11時42分

 「うちは値上げを行わないことを決めています。これからも値上げやお客さまに不利なプラン変更をすることなく、長くご利用いただけるサービス作りに取り組んでいきます」──そう語るのは、クラウド請求書受取サービス「invox」(インボックス)を運営するinvoxの横井朗代表だ。

 invoxは、企業間でやりとりされる請求書をデジタル化し、受け取りから支払いまでをクラウド上で一元管理できるSaaS。現在の導入企業数は2万社超という。特筆すべきは、invoxが「値上げを行わない」方針を明確に打ち出している点だ。

 「5年間値上げはしていないし、これからもする気はありません」と横井代表は断言する。初期費用は0円、月額料金は980円、9800円、2万9800円の3プランで、請求書処理量に応じた従量課金が加わる仕組みだ。この料金体系を維持し続けるという。

 一般的なSaaSビジネスでは、顧客数の増加とともに顧客単価を上げていくことが成長戦略の王道とされる。しかし、invoxはあえてその道を選ばない。なぜ、invoxはこのような異例の方針を掲げているのか。そして維持は可能なのか。横井代表は「より多くの人に使ってもらい、業務効率化の恩恵を広く行き渡らせたい」と話す。

●顧客単価アップよりも顧客数増加を重視

 invoxは一般的なSaaSビジネスモデルと異なり、低価格戦略を軸に顧客数の増加に注力している。「より多くの人に使ってもらい、業務効率化の恩恵を広く行き渡らせたい」と横井代表。この方針を実現するため、invoxは徹底的なコスト削減と効率化を図っている。

 まず、invoxは創業時からフルリモートで運営している。「初めからフルリモートでコストをなるべく下げて、低価格でも黒字化できるように、いかに低コストで低価格で提供できるかというところを目指してきました」(横井代表)

 マーケティングや営業にかける費用を最小限に抑えている点も特徴だ。「マーケティングにそんなにコストをかけていないので、知名度はだいぶ低いんです。でも、きちんと比較していただければ選んでもらえる」という。

 invoxの戦略は、低価格を維持することで導入障壁を下げ、多くの企業に利用してもらうことだ。「(クライアントは)導入時にきちんと費用対効果を出して、このコストならペイするだろうと判断して導入を決めています。そこで後から値上げをすると、このコストだったら入れなかったのにという話になってしまう」

 「日本の法人数は200万から300万といわれています。より多くの人に使っていただきたいと思うと、まだまだ1桁、2桁の成長の余地があります」と横井氏は市場の可能性を語る。

●VCからの資金調達を避け、ブートストラップ型で成長

 ただ、気になるのは値上げしない方針の持続性だ。若いスタートアップであれば、資金調達元であるベンチャーキャピタルからの突き上げがあり、結局値上げに走る──というシナリオも考えられる。しかし、invoxは少々事情が違う。

 実はinvoxは、ベンチャーキャピタル(VC)からの資金調達を避け、自己資金で成長を続ける「ブートストラップ型」のスタートアップでもある。「誰かから無限に成長を求められるビジネスはやっていて面白くないんです」と横井代表。

 そもそも横井代表は過去に2社の創業に関わり、1社は上場、もう1社はM&Aを経験している人物。「上場すると、永遠に目に見えない株主から無限に成長を求められ続けて、成長、株価、株主を見て仕事をしなきゃいけない。M&Aされると、気持ち的にサラリーマンになって、親会社からも設定された目標を達成するみたいな仕事になってしまって。どちらも楽しくないという感覚がありました」

 こうした経験から、横井代表は3社目となるinvoxでは異なるアプローチを選択した。「今回は、思う存分好きな自社開発を自分で目標を設定してやりたい」と横井氏は当時を振り返る。

 創業時の開発費用は横井代表の自己資金で賄われた。「以前の会社を上場した時のキャピタルゲインが少しあったので、それを初期費用にしました」という。さらに、横井さんの志に賛同したエンジニアも手を貸した。「前から一緒にやってくれているエンジニアが何人かいるので、手弁当で手伝ってもらって土日で開発しました。初年度は600万円ぐらいで結構な開発をしました」

 この選択は、経営の自由度を高めることにつながった。例えば継続的に行っている寄付だ。「処理した請求書1枚につき1円の寄付を1件目からやっています」と横井代表は語る。「もしVCから資金調達したら、なんか『俺が渡した金で寄付してんのかよ』って話になっちゃう」

 ブートストラップ型の成長を選択した結果、invoxは2023年夏に黒字化を達成した。「サービス開始が2020年の3月で、3年間で黒字化できました」と横井代表は胸を張る。

●社会貢献と事業の両立を目指す「大人のスタートアップ」掲げる

 値上げをしない姿勢やブートストラップ型の選択を踏まえ、invoxは自らを事業の成功と社会貢献の両立を目指す「大人のスタートアップ」と称する。「今応募してきてくれる方も、大人のスタートアップというこのキーワードを魅力に感じてくれる方々が多いんです」と横井代表。

 社内でも、従来型の厳格な目標管理やノルマ設定は行っていない。横井代表は「目標とか計画もあまりない。ノルマとかはあるわけがない。その方が仕事が楽しいと思っている」と語る。営業部門でも個人ごとのノルマは設けておらず、月末に目標達成を迫られるようなプレッシャーをかけない方針だ。ただし、数字を見ることの重要性は認識しており、社員自身が改善のために数字を確認することは推奨している。

 「いわゆるキラキラ系の、資金調達いっぱいしてドンドン行くぞ、みたいなスタートアップというよりは、ちょっと地に足がついてて、自分たちの仕事が社会貢献につながるみたいなイメージに共感してもらっている」

 すでに行っている請求書1枚につき1円の寄付に続き、invoxは社会貢献の新たな形として、請求書データを活用したCO2排出量計測サービスの開発も進めている。

 「請求書をやりとりしてたまるデータってすごい価値があるんです。どの会社とどの会社が何をいくらで取引してるかが分かる。その情報を活用して、企業のScope3排出量(サプライチェーンにおける温室ガスの排出量)の計測や、カーボンクレジットの創出・販売を検討しています」

 これらの取り組みも、invoxという事業基盤を活用した社会貢献の一環という。「ビジネスとしての収益を期待しているわけではありません。むしろ、私たちの事業を通じて社会に貢献する方法です」と横井氏は位置付ける。

 「私は、会社というのは自分たちのやりたいことを実現するための器だと考えています。ただ資金を調達するために、本来やりたかったことができなくなってしまうのは本末転倒です。そうなると、長期的に事業を楽しむことができなくなってしまう。だからこそ、私たちは社会貢献と事業の両立にこだわっています。これにより、持続可能な形で私たちの理念を実現できると信じています」

 invoxの「大人のスタートアップ」としての取り組みは、SaaS業界の常識への挑戦でもある。値上げを行わない方針、ブートストラップ型の成長、そして社会貢献との両立。これらは3年での黒字化と2万社を超える導入企業数が示すように、単なる理想論ではない。

 横井氏の追求する「持続可能な形での理念の実現」は、スタートアップの在り方に一石を投じている。急成長と短期的利益追求に偏りがちだった業界に、長期的視点と社会的価値という新たな軸をもたらしたのだ。invoxの存在は、ビジネスの成功と社会貢献の両立可能性を示す、新たなモデルとなるかもしれない。

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