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なぜ? 地方で進み始めた「脱・交通系ICカード」の流れ その切実な事情とは

ITmedia NEWS 2024年7月31日 13時35分

 2024年5月、熊本市を中心にバス路線や鉄道を運行する事業会社5社が、Suicaを含む全国で利用可能な「交通系ICカード」の利用を年内にも廃止することを発表して話題となった。

 九州産交バス、産交バス、熊本電鉄、熊本バス、熊本都市バスの5社は5月27日に会見を開いて、運賃支払いにかかわる機器の更新に合わせて交通系ICカードを廃止、代わりに近年導入が進みつつあるクレジットカードなどによるタッチ決済を導入するという。一方で敬老パスなどとしても活用されている(全国共通交通系ICカードではない)「くまモンのICカード」については引き続き利用が可能で、このほかスマートフォンなどのモバイル端末を利用するユーザーには「くまモン!Pay」を含むQRコード乗車券も利用可能にする。

 5社が理由として挙げるのが、2025年3月の年度末にやってくる約12億円という機器の更新料負担で、5社合わせて直近の年間赤字が40億円近い現状を鑑みると負担が大きいという判断による。

 同件は翌28日に開催された定例市長会見でも触れられており、25年4月以降の同事業者らが運行するバスや鉄道の支払い方法が変わるほか、24年12月中旬以降は(全国共通の)交通系ICカードが利用できなくなるため、その旨準備をするよう訴えている。

 また同時に、熊本市交通局で運行する熊本市電(路面電車)についても26年4月から同様の支払い方式へと変更し、結果的に(全国共通の)交通系ICカードが利用できなくなることにも言及している。記者会見での説明によれば、熊本市電における機器の更新費用は2億円ということで、各社の費用感と比べて若干低くなるが、もともとの運賃が低額なことに加え、昨今問題になっている運転手不足を受けて従業員の待遇改善などを実施しているタイミングもあり、苦境に立たされていることに理解を示すよう訴えている。

 この話題については世間でさまざまな話題を呼んだが、5社の判断に理解を示す声もある一方で、決定を再考するよう求める運動も起きている。ただ機器の保守期限という絶対的な更新タイミングが近づくなか、ない袖は振れないということで5社については当初の決定のまま進むとみられるものの、他社と比べて1年だけ猶予のある熊本市電については市民のみならず市議会側からの反対の声もあり、現在のところ結論に至っていない。

 熊本市電を運行する熊本市交通局では、もともと5社と運賃支払い方式を合わせるために(全国共通の)交通系ICカードの廃止を決めていたが、テレビくまもとの7月23日の報道によれば、折衷案として(全国共通の)交通系ICカードの完全廃止ではなく、車内チャージ不可の簡易型端末への置き換えを新たに提案したという。

 「更新期限は26年3月となっており、4月以降の切り替えに対応できるよう検討を進めているが、現時点でどのタイミングまでに結論を出して、実際に切り替えるのか具体的な時期は見えていない」(熊本市交通局)と担当者はコメントする。

 ただ報道で示された情報を見る限り、(全国共通の)交通系ICカードを維持した場合の更新費用が約2億円として、廃止した場合の更新費用が約1.1億円なのに対し、今回提案された簡易端末採用時の更新費用が約1.9億円と、ほとんど費用削減効果が見られない。

 理由として考えられるのが、いくら簡易端末であっても(全国共通の)交通系ICカードを読み取るという仕様はそのままで、基本的な費用感に変化はない。唯一の違いが、車内チャージを可能にするための「運賃箱の操作端末の“チャージ対応”改造費用」であり、つまりは(全国共通の)交通系ICカードを採用すること自体が高い費用感につながっていることの証明となっている。

●「10カード」と「地域限定」の違い

 熊本市のケースで、交通系ICカードについてもう少しだけ掘り下げていく。Suicaを含む全国共通の交通系ICカードは「10カード」とも呼ばれ(『PiTaPa』を含む全国の主要交通系ICカードが10種類あることから)、熊本市電はこのうちの西日本鉄道らが中心となって発行している「nimoca」(ニモカ)を14年に「でんでんnimoca」として採用し、全国共通の交通系ICカードの受け入れに先鞭をつけている。

 一方で前述の熊本市を中心に運行するバス・鉄道5社は「くまモンのICカード」を15年から利用開始した。正式名称は「熊本地域振興ICカード」であり、地域の公共交通や小売店での利用が可能な“地域限定”のICカードとしての扱いだ。カードの規格としてはFeliCaで共通なものの、後述する「サイバネ規格」をベースとした10カード”の仕様とは異なっており、両者に相互共通性はない。

 ただし、これでは九州内を含む他の地域の交通系ICカードは使えず利便性の面で劣るため、16年にJR九州との提携で前述5社の運行する公共交通機関でJR九州の発行する10カード「SUGOCA」の受け入れを開始し、結果としてSuicaを含む他の地域の10カードの利用が可能になった。

 16年から開始したSUGOCAの受け入れは「片利用」と呼ばれるもので、10カードを5社の運行する公共交通機関で利用可能なものの、その逆のくまモンのICカードを他の10カードの営業地域では利用できない。なお、これではでんでんnimocaを採用する熊本市電にくまモンのICカードでは乗れないことも意味しており、JR九州との提携に先駆ける形で、熊本市電側では15年に「くまモンのICカード」を受け入れる連携を開始している。

 今回の5社の決定は、機器の更新タイミングに合わせて片利用を終了し、地域限定の交通系ICカードの役割に限定するという話だ。

 「FeliCaベースの“地域限定”交通系ICカードを維持しつつ、片利用を停止するだけでそんなに費用感が違うのか?」という疑問は当然沸いてくるだろう。これについて、2015年以降の「くまモンのICカード」導入に際しての検討が行われた、熊本市公共交通協議会の平成25年度(2013年)の資料に面白い記述がある。

 平成25年度第2回熊本市公共交通協議会の会議資料の抜粋だが、まず交通系ICカード導入にあたって10カードではなく、地域独自のカードを導入する理由がシンプルに述べられている。詳しくは後述するが、実は機器のイニシャルコストは両者でそれほど変わらず、むしろランニングコストが高いという部分に注目しているほか、引用の際に割愛した側面で「割引サービスを含めた柔軟な付加サービスへの対応や拡張が難しくなる」といった部分を懸念材料としている。総じて見ればコスト面での負担を第1の理由としており、今回の決定と判断理由に差異はない。

●だいぶ差がある導入・イニシャルコスト

 次に「ランニングコスト」の部分を見ていく。こちらは同年度の第3回の会議資料だが、10カードを導入した場合と地域独自のカードを導入した場合の2つのパターンで予算をシミュレーションしている。

 カギになるのが「SF利用料」と呼ばれるもの。これは、ICカードにチャージした金額(SF:Stored Fare)で決済を行った場合の手数料で、10カード採用時は「カードを発行している会社」に対して1.5%の費用が発生するという。地域独自のカードの場合は空欄になっているが、システム利用料の一環としてリース料に含まれているため、実際の手数料はそちらに合算される。そのため「年間利用料と保守費用」と「決済手数料」の合計で比較することになるが、10年目には累計で4倍近くまで差が開いてしまう。

 なぜ利用料と保守費用がそこまで高騰するかだが、過去の取材などで見聞きしてきた情報から判断すると、「駅やバスの停留所の情報を1つ更新するだけで全国規模のデータベースに更新を加えざるを得ず、頻繁なメンテナンスが必要になる」ことが理由の1つに挙げられる。導入費用の問題と合わせ、特にバス会社にとっては負荷が大きくなる要素だと思われる。

 そして興味深いのは「イニシャルコスト」の部分だ。2社に問い合わせて運賃箱の改造費用の見積もりを取って比較しているようだが、注目ポイントは2点で、数字の転写ミスと思われる部分に目をつぶれば、10カードを採用する片利用と相互利用のいずれの方式でも費用感にそこまで差がない一方で、地域独自の方式であれば費用が3分の2程度まで減額できることと、イニシャルコストの部分については両者で実はそこまで差がなく、むしろ補助金の存在によって10カードを何らかの形で絡めた方が抑え込めるというところにある。

 補助金の性格による部分も大きいが、おそらく「全国共通の交通系ICカードを広めることを推奨」という指針で、国・県・市から補助金が支出されるのだと思われる。

 結果として、表中の3つのパターンのうち「地域+片利用方式」を採用したわけだが、その理由は「補助金を組み合わせるとむしろイニシャルコストを低減できる」「片利用の方が地域の独自施策を盛り込みやすいという柔軟性」にあるのだろう。

●「交通系ICカード」対応の更新費用が高い理由

 さて、この補助金制度には1つわながある。15年の「くまモンのICカード」導入時は、あくまで「(全国共通の仕組みを受け入れ可能な)交通系ICカードの新規導入」という扱いだったものが、今回は「機器の更新」であり、補助金の対象外となってしまう。つまり初期導入時は補助金の存在によって相殺されていたイニシャルコストの高さが、今回はそのまま降りかかってくることを意味する。

 前述のように5社の経営状況は決して芳しくないこともあり、費用負担は最小限に抑えたいという意向が働いたのが今回の決断の経緯となる。全国共通の10カードの受け入れを中止して不自由を被る利用者には、代わりにクレジットカードなどによるタッチ乗車の仕組みが提供されることになるが、この費用も無料ではないものの、10カード関連の更新費用に比べればずっと安いということなのだろう。

 現在日本全国で進んでいるタッチ乗車の導入の最前線で動いている三井住友カードのstera transit事業を統括する石塚雅敏氏は「日本全国のバス会社など中小の交通事業者を中心に同じような機器(運賃箱)の更新問題を抱えており、今後10年とたたずに更新期限が来ることを考えれば、次々と同じような決定を行う事業者が出てくる可能性が高い」と述べている。

 タッチ乗車の具体的な導入コストは非開示のため、今回のケースでの10カードからのリプレース費用との単純比較は難しいが、筆者が取材したすべてのケースにおいて「大きく費用が下がる」という担当者のコメントは得ており、少なくとも補助金制度がなしの状態でのリプレースと比較しても大幅に下がることは間違いない。より少ない費用負担で、10カードが使えなくなることの代替が可能というスタンスだ。

 今回は地域のバス事業社5社が中心となっていたが、特にバス事業者にとって10カードの維持負担が大きくなる理由が2つある。

 1つはバス会社の場合、中小の事業者であっても地域交通を担う場合には少なくとも数十台、中規模以上のケースで100台以上を抱えていることも珍しくなく、機器の更新費用が台数分のしかかってくる。運賃箱を取り扱うメーカーは日本国内に実質的に片手で数えられる程度しか存在しない。とはいえ寡占で暴利を貪っているわけでもなく、狭い市場でしのぎを削っているのが現状だ。ゆえに運賃箱の導入あるいは改造費用はほぼ固定された費用としてカウントされるため、残りの部分でいかに費用を削るかが重要となる。

 2つ目は日本鉄道サイバネティクス協議会の存在だ。日本鉄道技術協会の特定部会であり、前出の「サイバネ規格」はここで定められている。「片利用」を含め10カードへの対応を行う場合、同協議会に参加して年会費を支払う形となるが、おそらく最大の問題となるのは会費そのものよりも、前述の「メインテナンスなどを含むサイバネ規格を維持するためのさまざまなコストや手間」にあると思われる。

 ある情報源は、以前に「『サイバネ規格』はそこで負担した費用が中核にあるJR東日本を中心とした大手に流れる仕組みになっており、これを嫌ってわざと独自仕様の交通系ICカードを導入する地方の事業者がいる」と述べていた。これは極端な例だが、いずれにせよ会社の体力に見合っていない負担が強いられるケースが、特に地方の事業者に多いというのもまた事実かもしれない。

 熊本放送(RKK)の報道によれば、今回話題となった5社の場合、くまモンのICカードの利用割合が全体の半数強、10カードは25%で、残りが現金による支払いだという。今年いっぱいで10カード分の数字がまるまる抜ける形となるが、来春にはクレジットカードによるタッチ乗車がスタートするため、おそらくその多くを吸収できるだろう。

 「子どもや高齢者はどうするんだ」という意見も聞かれたが、そもそも域内ではくまモンのICカードが有効であり、過半数がこの利用者であることを考えれば、地域交通の利便性を高める仕組みとしては十分に機能している。むしろインバウンドなどの利用を見据えれば、今後は域外からの訪問者はクレジットカードやデビットカードなど、“タッチ決済に対応したカードやスマートフォンを持ち込むことが主流になっていくだろう。

 カードを持たない人はQRコードの乗車券も用意されるので、家族などでのグループ移動でもそこまでの混乱はないと予想する。「タッチ乗車は反応が遅い」という人もいるだろうが、地方の交通機関に秒未満の反応速度が必要だろうか?

●どうなる? Suicaなどの「10カード」のゆくえ

 むしろ、今後考えるべきなのはSuicaなど10カードの行方だ。およそ7~10年単位で運賃箱や改札などの更新サイクルがやってくることを考えれば、先ほど石塚氏が触れていたみたいに地方交通を中心に10カード対応を切り捨てるケースが続出し、2030年ごろには「地方の公共交通機関で10カードが使えない」というケースも珍しくない可能性が高い。

 Suicaがデビューして間もなく四半世紀が過ぎるが、技術的にはむしろ枯れたといえる状況にあり、今後10年先を見据えてどのような姿で国の公共交通機関の運賃収集システムを構築していくか、改めて考えなければいけない段階になりつつある。

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