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【エンタがビタミン♪】泉谷しげる“第5代ねぶた名人”を救った映画に驚き「ヤバい役これからも頑張ります!」

TechinsightJapan 2018年5月3日 16時52分

シンガーソングライターで俳優の泉谷しげるが、5月2日放送のバラエティ番組『1億人の大質問!?笑ってコラえて!にっぽんをまなぼう2時間SP』(日本テレビ系)にゲスト出演した。スペシャルゲストのみやぞんと桝太一アナウンサーによる“朝までハシゴの旅”では思わぬところで「泉谷しげる」の名前が飛び出し、彼も驚いていた。

大森駅界隈でハシゴの旅を始めたみやぞんと桝太一アナが最初に入った居酒屋でのことだ。1974年生まれで「青山でブティックをやっていた」という常連のお母さんに出会う。お店から名物料理「鶏大根」の差入れがあり、お母さんは2人に「ちょっと食ってみて」と勧めながら「泉谷しげるがウマいって言って、お土産で持って帰った」とエピソードを明かす。

スタジオでVTRを見た泉谷は、突然名前が出て意外そうにしており「おそらくロケで行ったんじゃないかな」と記憶をたどる。そればかりではない、彼は他のコーナーでさらに驚くのだった。

“日本列島 名前の旅”では「千葉さんのなかの千葉さん」として、青森ねぶた祭で山車を作るねぶた師の千葉作龍さんを訪ねた。番組では第5代ねぶた名人である彼の業績を追いながらねぶた師の奥深さを知らされる。

千葉さんはねぶた作りについて「技術には天井(限界)がある、あとは気力、精神面を磨くしかないが、それが難しい」と話すように、彼もスランプに悩んだことがある。

1973年、26歳で最高賞である田村麿賞を受賞、77年に名前を千葉作龍とした。79年には4台のねぶたを作る人気ぶりだったが、原因不明の病にかかってしまう。病院ではなす術がなく祈祷師を頼った。

祈祷師に「馬を粗末にしたことはねえか。馬が血を吐いて苦しんでるよ」と告げられた彼は胸が騒いだ。ねぶたで馬を作ったが、道路を通れなかったことから足を切ったことが頭をよぎる。

祈祷を受けても馬のたたりは去らず、千葉さんは完全なスランプに陥ってしまう。周囲からは「田村麿賞を何度も取って天狗になっているからだ」と陰口が聞こえてきた。

そんな時に千葉さんはある映画を観て衝撃を受ける。「画面に恐ろしい悪い顔が出てきて、その眼が気になってしょうがない」「これをねぶたにしたらいいんじゃないかと思った」という役者こそ「泉谷しげる」だ。

当時、人気上昇中の石井聰亙監督がメガホンを取り、陣内孝則の初主演作でもある映画『爆裂都市 BURST CITY』(1982年公開)で30代だった泉谷しげるが主要キャストの1人を務めている。

泉谷しげるにヒントを得た千葉さんは1982年に制作賞を受賞、少しずつ自信を取り戻して再び活躍するようになる。そして2012年に「第5代ねぶた名人」となった。

スタジオでは再び泉谷が「オレの悪役がこういう影響を生むとは思わないもんな!」と驚いており、泉谷をヒントに千葉さんが作ったねぶたに司会の所ジョージが「あのまんまね」、スペシャルゲストの櫻井翔が「めちゃめちゃ似てましたよ!」と感心する。

その声に「ヤバい役これからも頑張ります!」とやる気を見せた泉谷しげるだが、実はねぶた祭とは縁が深い。

『泉谷しげるオフィシャルブログ「泉谷しげる・春夏秋冬」』で2010年8月2日、「青森の放送局に呼ばれて念願の『ねぶた祭り』を遂に見るコトが~!」と綴っていた。

青森出身だが3歳までしか住んでおらず、うっすらとしか覚えていないので「初めて参加みたいな気分なンだよ~ウレシイ!」という彼は、「ねぶた師の描く絵図の凄さは目の当たりにすっとスゲエ迫力! 思わず指で和紙破きたくなったが迫力に押されて出来んかった!」という。

それからおよそ8年、第5代ねぶた名人・千葉作龍さんをスランプから救ったのが自分だと知ることになるのだから分からないものである。

画像は『泉谷しげる 2010年8月2日付オフィシャルブログ「ねぶた~!」』のスクリーンショット
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)

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