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【エンタがビタミン♪】アントニオ猪木、マサ斎藤さんを偲び「巌流島の戦いの後、天皇家の方に…」

TechinsightJapan 2018年7月23日 15時0分

7月14日にパーキンソン病のため75歳で他界したマサ斎藤さんの告別式が22日、都内で執り行われた。その日、アントニオ猪木がSNSで機上の姿とともに「マサくん、安らかに眠ってください。元気に旅立った事と思います」と偲んでいる。

マサ斎藤さんは明治大学の学生だった1963年にレスリング全日本選手権のフリースタイル及びグレコローマンのヘビー級で優勝、1964年の東京オリンピックに日本代表で出場した。大学を卒業し1965年に日本プロレスに入るが、翌年6月に離脱して豊登とアントニオ猪木を主力とする新団体・東京プロレスに参加した。

東京プロレスではアントニオ猪木、豊登に次ぐポジションで活躍するも、翌年には団体が崩壊してしまう。所属レスラーの多くが国際プロレスへ移籍、猪木は古巣の日本プロレスに戻るが、斎藤さんは渡米の道を選びフリーランスの一匹狼として「ミスター・サイトー」や「マサ・サイトー」のリングネームでヒール役に徹した。

アメリカで活躍した後、1972年に帰国すると日本プロレスや新日本プロレスに参戦しており、1983年から長州力の「維新軍」に関わり「アントニオ猪木・藤波辰巳」との軍団抗争や「ジャンボ鶴田・天龍源一郎」との対戦が思い出される。

そんななか1987年10月4日に巌流島で行われたアントニオ猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチは『巌流島の戦い』と呼ばれ、プロレス史に残る一戦となった。

アントニオ猪木はマサ斎藤さんを偲んで「語ればきりなく色々思い出しますが」とつぶやき、「巌流島の戦いの後、天皇家の方に東京駅でお会いする事がありました」とその頃のエピソードを振り返る。猪木は天皇家の方から開口一番「マサ斎藤さんはお元気ですか?」と聞かれてびっくりしたことを伝え「お疲れ様でした」と呼びかけた。

また、告別式に参列した武藤敬司は、マサ斎藤さんと同じようにアメリカのマットで「グレート・ムタ」として活躍した間柄だ。彼は7月17日に「一番話が合う大先輩だった。豪傑な中に繊細な心を持ったマサさんは、とてもチャーミングな方だった。お元気になられたらマスターズにもお声掛けしようと思っていただけに…悲しい」とツイートしている。



蝶野正洋は22日、告別式を終えてから「沢山の方にリスペクトされたマサ斎藤さん レスリングもビジネスもプロフェショナルな方でした。素晴らしい大先輩と、時代を共に出来た事をあらためて誇りに思い、感謝いたします。 安らかなる御冥福をお祈り申し上げます」と改めて言葉を送った。

画像は『アントニオ猪木 2018年7月22日付Twitter「マサくん、安らかに眠ってください。」』『武藤敬司 2018年7月17日付Twitter「尊敬するマサ斎藤さんが亡くなられた。」』『蝶野正洋/Chono Masahiro 2018年7月22日付Twitter「沢山の方にリスペクトされた マサ斎藤さん」』のスクリーンショット
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)

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