歌手の広瀬香美が生放送番組に出演してヒット曲『ロマンスの神様』をピアノで弾き語りした。彼女はこの曲を「80歳まで元気に歌い続けるのが目標」だと笑顔で宣言したが、当初は自分の思い描いた作品ではなく不満を抱きながら歌っていたという。
今も米国・ロサンゼルスと日本を行き来しながら活動する広瀬香美。11月18日のNHK『スタジオパークからこんにちは』に生出演して「冬は日本で活動して、夏はロサンゼルスで創作活動をする」と説明。「冬なので日本に舞い降りてきました」と言うと、MCの清水ミチコから「野沢直子の逆バージョン」とたとえられた。
広瀬香美は、日本で歌手デビューする前からロサンゼルスに住んでいた。彼女が渡米するまでには子ども時代から大学時代までの波乱に満ちた経験があり、ロサンゼルスでの“ある出会い”をきっかけに、歌手への道を進むことになる。
4才でピアノを習い始めると、小学生の時には作曲家を夢見た。モーツァルトに憧れて「天才だな、どんどんメロディーがおりてくるんだろうな」と広瀬自身も天才になりたかったという。すでにモーツァルトを真似たクラシック風な曲を書いていた彼女は、寝ている間に夢の中で作曲して、朝起きたら『あ、できてる、2曲できてる』という才能も発揮した。目が覚めても曲を忘れずにちゃんと記憶しているが、微熱が出ることもあったらしい。そんな子ども時代を振り返ると「今は、ないんですよね~」と残念がっていた。
当時はアニメやヒーローものが大好きで、夢の中でウルトラマンに追いかけられておねしょをした時には、起きると名曲が出来ていたそうだ。「カネゴンやウルトラマンは、ありがたくて、今でも拝めます」と感謝しており、その頃に書き留めた曲はアルバムにも入っているらしい。
やがて、作曲家を目指して国立音楽大学作曲学科に入る。ところが、張り切って臨んだ前期のテストで、成績の順位は学科15人中の15番目。大学1年生にして、教授から「作曲家にはなれないから、別のことを考えた方がいい」と言い渡される。ショックを受けた彼女は夏休みに、米国にいる友人を頼ってロサンゼルスに渡った。
その時に、友人が連れて行ってくれたのがマイケル・ジャクソンのコンサートだ。踊って歌うマイケルのパフォーマンスに衝撃を受けた広瀬香美は「カッコイイ! 私、マイケル・ジャクソンに曲を書けばいいや!」と新しい道に目覚めた。その後、大学を卒業した彼女はロサンゼルスに移り住んで、働きながらデモテープを現地のレコード会社に送り続ける。だが、それを聴いて注目したのは日本のレコード会社だった。
1992年に広瀬香美として現在のビクターエンタテインメントから『愛があれば大丈夫』でデビュー。翌年の12月1日には、ウインタースポーツ用品のCMとタイアップした3枚目のシングル『ロマンスの神様』を出すこととなる。
『ロマンスの神様』が175万枚のセールスで大ヒットすると、その後も『幸せをつかみたい』や『ゲレンデがとけるほど恋したい』、『真冬の帰り道』など冬にぴったりな楽曲で人気となり“冬の女王”と呼ばれる。しかし、まだ作曲家志望だった彼女は『ロマンスの神様』に不満を持っていたのだ。
『ロマンスの神様』はCMのために書いた楽曲だったので、CMの監督や所属事務所、レコード会社などの関係者が「こうがイイ」、「ああした方がイイ」と口出ししてくる。まだ、自信が無かった彼女はそれを受けて何度も手直しした。出来上がってみると、“これ、私の作曲じゃない!”という感じだった。
そんな経験を明かした広瀬香美だが、この日は、『スタジオパークからこんにちは』のスタジオでピアノの弾き語りによる『ロマンスの神様』を披露。観客と掛け合いまで飛び出す盛り上がりを見せた。今ではこの曲を「奇っ怪(きっかい)でおもしろくて、歌って楽しい。みなさんのおかげです。自分の力だけではこうは仕上がらなかった」と思えるようになったそうだ。
視聴者から「いつまでも進化し続けるのが凄い」とメッセージが届くと、広瀬香美は「80歳まで『ロマンスの神様』を元気で歌い続けるのが人生の目標」と宣言した。「それまで、『広瀬香美、元気に歌ってるよっ』と皆さんに言われたいので、まだまだくじけてはいられない」という。
彼女は、現在放送中のNHK BSプレミアム『キャロリング~クリスマスの奇跡~』の主題歌『運命のクリスマス』を歌っており、すでに新曲も構想中だ。数々のヒット曲を持ち、NHKにも出演しているが、なぜか『紅白歌合戦』に出場したことがない。今年は可能性があるのではないだろうか。
※画像はYouTube動画のサムネイル。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)
今も米国・ロサンゼルスと日本を行き来しながら活動する広瀬香美。11月18日のNHK『スタジオパークからこんにちは』に生出演して「冬は日本で活動して、夏はロサンゼルスで創作活動をする」と説明。「冬なので日本に舞い降りてきました」と言うと、MCの清水ミチコから「野沢直子の逆バージョン」とたとえられた。
広瀬香美は、日本で歌手デビューする前からロサンゼルスに住んでいた。彼女が渡米するまでには子ども時代から大学時代までの波乱に満ちた経験があり、ロサンゼルスでの“ある出会い”をきっかけに、歌手への道を進むことになる。
4才でピアノを習い始めると、小学生の時には作曲家を夢見た。モーツァルトに憧れて「天才だな、どんどんメロディーがおりてくるんだろうな」と広瀬自身も天才になりたかったという。すでにモーツァルトを真似たクラシック風な曲を書いていた彼女は、寝ている間に夢の中で作曲して、朝起きたら『あ、できてる、2曲できてる』という才能も発揮した。目が覚めても曲を忘れずにちゃんと記憶しているが、微熱が出ることもあったらしい。そんな子ども時代を振り返ると「今は、ないんですよね~」と残念がっていた。
当時はアニメやヒーローものが大好きで、夢の中でウルトラマンに追いかけられておねしょをした時には、起きると名曲が出来ていたそうだ。「カネゴンやウルトラマンは、ありがたくて、今でも拝めます」と感謝しており、その頃に書き留めた曲はアルバムにも入っているらしい。
やがて、作曲家を目指して国立音楽大学作曲学科に入る。ところが、張り切って臨んだ前期のテストで、成績の順位は学科15人中の15番目。大学1年生にして、教授から「作曲家にはなれないから、別のことを考えた方がいい」と言い渡される。ショックを受けた彼女は夏休みに、米国にいる友人を頼ってロサンゼルスに渡った。
その時に、友人が連れて行ってくれたのがマイケル・ジャクソンのコンサートだ。踊って歌うマイケルのパフォーマンスに衝撃を受けた広瀬香美は「カッコイイ! 私、マイケル・ジャクソンに曲を書けばいいや!」と新しい道に目覚めた。その後、大学を卒業した彼女はロサンゼルスに移り住んで、働きながらデモテープを現地のレコード会社に送り続ける。だが、それを聴いて注目したのは日本のレコード会社だった。
1992年に広瀬香美として現在のビクターエンタテインメントから『愛があれば大丈夫』でデビュー。翌年の12月1日には、ウインタースポーツ用品のCMとタイアップした3枚目のシングル『ロマンスの神様』を出すこととなる。
『ロマンスの神様』が175万枚のセールスで大ヒットすると、その後も『幸せをつかみたい』や『ゲレンデがとけるほど恋したい』、『真冬の帰り道』など冬にぴったりな楽曲で人気となり“冬の女王”と呼ばれる。しかし、まだ作曲家志望だった彼女は『ロマンスの神様』に不満を持っていたのだ。
『ロマンスの神様』はCMのために書いた楽曲だったので、CMの監督や所属事務所、レコード会社などの関係者が「こうがイイ」、「ああした方がイイ」と口出ししてくる。まだ、自信が無かった彼女はそれを受けて何度も手直しした。出来上がってみると、“これ、私の作曲じゃない!”という感じだった。
そんな経験を明かした広瀬香美だが、この日は、『スタジオパークからこんにちは』のスタジオでピアノの弾き語りによる『ロマンスの神様』を披露。観客と掛け合いまで飛び出す盛り上がりを見せた。今ではこの曲を「奇っ怪(きっかい)でおもしろくて、歌って楽しい。みなさんのおかげです。自分の力だけではこうは仕上がらなかった」と思えるようになったそうだ。
視聴者から「いつまでも進化し続けるのが凄い」とメッセージが届くと、広瀬香美は「80歳まで『ロマンスの神様』を元気で歌い続けるのが人生の目標」と宣言した。「それまで、『広瀬香美、元気に歌ってるよっ』と皆さんに言われたいので、まだまだくじけてはいられない」という。
彼女は、現在放送中のNHK BSプレミアム『キャロリング~クリスマスの奇跡~』の主題歌『運命のクリスマス』を歌っており、すでに新曲も構想中だ。数々のヒット曲を持ち、NHKにも出演しているが、なぜか『紅白歌合戦』に出場したことがない。今年は可能性があるのではないだろうか。
※画像はYouTube動画のサムネイル。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)