人気討論番組の「ロリコン・暴力アニメ規制は必要か?」が物議
最近、テレビの人気討論番組で「ロリコン・暴力アニメ規制は必要か?」というテーマが取り上げられ物議を醸しています。少女誘拐監禁事件の被疑者の部屋の壁に美少女アニメのポスターが貼られており、これらのアニメが犯罪を誘発したのではないかということから、犯罪抑止のためにはアニメや漫画に対する規制が必要かどうかが議論されました。
規制賛成派の人たちは「アニメや漫画を見て、そこに描かれている行為を真似しようと思うことが、犯罪動機の形成に大きな影響がある」と述べて、アニメと犯罪の因果関係を指摘します。確かに、アニメや漫画を見た人が、社会的には許されないとわかっていても「自分もやってみたい」と思う誘惑に駆られる可能性はあるのだと思います。しかし、だからといって、そのような危険なものは何でもかんでも規制してこの世から葬り去れば良いという考えが果たして妥当かという観点も欠かせないでしょう。
法で規制することには、よほど慎重でなければならない
法学教育の初めのころに「法と道徳」というテーマが取り上げられることがあります。不道徳なことであったとしても、それを法で規制することの意味について考えさせるものです。そして、結論として「法は最低限の道徳」という考えが示されます。不道徳であっても、社会に害悪を及ぼすようなものでなければ法で規制することには慎重であるべきという考えです。多くの規制反対論者が述べるように、普通の人はそのようなアニメや漫画を見たところで犯罪には手を染めません。このようなアニメや漫画が犯罪の誘引になる可能性は否定できないとは思いますが、それを法で規制することには、よほど慎重でなければならないと思います。
私自身は、このような表現も「表現の自由」によって保護されるべきだと思っていますが、犯罪を誘発するような醜悪な表現に自由を与える必要はないという論者もいます。しかし、この反対論の前提には、特定の表現に対する否定的な評価があります。「ものごとに対する評価はきわめて相対的なもの」ということも知っておかなければなりません。人類の歴史上、社会の大半から非難された考えや表現が後の世界の変革をもたらしたという例は数多くあります。だからこそ、自分が受け入れ難いと思うような表現にも「表現の自由」は与えられるべきなのです。
アニメや漫画はきっかけに過ぎない
話を少女誘拐・監禁の事件に戻しますが、私は、このような事件を起こす人の共通点は、社会からの疎外感と自己肯定感の欠如ではないかと考えています。自分を大切に思う気持ちがあれば、罪を犯した結果、自分に破滅が待っていると想像すれば思い留まることができるのではないでしょうか。
社会から疎外され、自暴自棄になって、最後は欲望の赴くまま行動して罪を犯してしまう。その動機は、ロリコン・暴力アニメや児童ポルノ漫画といったものによってもたらされるのではなく、より内面的な要因によるものだと考えます。
事件類型は異なりますが、秋葉原の無差別殺傷事件も、現実の職場だけでなく、心のよりどころとしていたネットの世界でも相手にされなくなって、自暴自棄になって起こしてしまったことです。他人や社会とうまくコミュニケーションをとれない人に対して、現実と向き合う機会を与えられないことに根本の問題があるのであって、アニメや漫画はきっかけに過ぎないと私は考えています。ですから、このような事件を起こしてしまう人は、アニメや漫画の刺激を奪ったとしても、場合によっては、より深刻な事件を起こしてしまうかもしれないのではないかと思ってしまいます。
このような事件を防ぐために行うべきことは、アニメや漫画の規制よりも、社会から阻害され、社会を敵視するような気持ちに陥る人を作り出さない施策なのではないかというのが私の結論です。
(舛田 雅彦/弁護士)