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消えゆく歴史的意義、自由を守る「大学自治」の存在理由

JIJICO 2014年12月4日 17時0分

「大学の自治」は「学問の自由」に由来する

京都大学の構内に私服警察官が無断で立ち入ったとされる「事件」で、「大学の自治」問題がクローズアップされています。元々、京都大学と京都府警との間には、警察官が大学構内に立ち入る際「事前通告」をするという申し合わせが存在したようです。これは「大学の自治」を尊重する観点からの取り決めですが、このような申し合わせの存在そのものに驚く人がいるかもしれません。しかし、同様の申し合わせは、各地の大学と警察との間で当然のように行われています。

「大学の自治」というのは、「学問の自由」に由来します。「学問の自由」は、日本国憲法の第23条で明文によって保障されていますが、具体的には「研究の自由」「研究発表の自由」「教授の自由」を指します。ここでいう「自由」とは、「公権力からの自由」を意味します。公権力から干渉を受けない「研究」「発表」「教授」の自由を守るためには、「大学の自治」が不可欠です。そこで、「大学の自治」は「学問の自由」を守るための「制度的保障」として位置付けられています。

「大学の自治」というのは「治外法権」と同義ではない

「公権力からの自由」を突き詰めると、大学施設などの管理や自治に関連し、警察権力との関係が問題となります。もちろん「大学の自治」というのは、「治外法権」と同義ではありません。警察が適法に「捜索差押令状」などを取得したうえで大学内の施設等を捜索し、差押手続を行うことは当然あり得ることです。これについて、「大学の自治」を理由に拒否することは許されません。

しかし、何らかの形で大学に対する警察権力の介入がなされる場合、それが「学問の自由」に対する不当な干渉や「大学の自治」に対する不当な侵害にあたらないか、という点は常に疑ってかかる必要があります。

警察権力が秘密裏に大学を監視するには違和感を覚える

そもそも、日本国憲法がわざわざ明文で「学問の自由」を保障した理由は、明治憲法下において「学問の自由」が国家権力によってしばしば弾圧されてきたという歴史的な経緯があるからです。国家権力というものは、ともすれば国民の「思想信条の自由」や「学問の自由」を禁じたり、弾圧したりしがちです。現代の日本人は「民主主義」や「自由」を当然の権利として享受していますが、近隣の諸国を見渡せば、私たちにとって当然と思われている権利(人権)がまったく保障されていない事実に気づくことでしょう。

今回の京都大学での「事件」は、公安警察による「中核派」の監視行動に端を発するものであり、本質的な意味での「学問の自由」への干渉とは無関係のようです。また、極左活動家たちが「大学の自治」を「隠れ蓑」にしていることに対する批判の声にも、納得できる部分があります。しかし、だからと言って、警察権力が大学構内を秘密裏に監視することには、少なからず違和感を覚えます。

国民は国家権力による「監視」を事実上受け入れてしまっている

思えば、私たちは「監視される社会」に慣らされてしまいました。街中に張り巡らされた「防犯カメラ網」や「Nシステム」によって、犯罪捜査の技術力は飛躍的にアップし、犯罪の発生を未然に防止する威力さえ発揮しています。これは、安心して生活できる「安全な社会」を享受するために、私たち自身が、国家権力による「監視」を事実上受け入れてしまったことを意味します。

今回の「事件」によって、「監視される社会」に「慣れっこ」で日本国憲法が「学問の自由」や「大学の自治」を保障していることの歴史的な意義すらすっかり忘れ去っている自分に気付かされたのは、恐らく私だけではないでしょう。

(藤本 尚道/弁護士)

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