他人が握ったおにぎり「食べられない」派が47.8%
以前、あるタレントが「友達の母ちゃんの握ったおにぎりを勧められても食べられなかった」と発言して話題になりましたが、Jタウン研究所は「他人が握ったおにぎりが食べられるかどうか」について全国調査を実施しました。すると、「食べられる」派は52.2%、「食べられない」派は47.8%という結果が出たということです。
同様の内容を小学生に行った別の調査では、他人のおにぎりに抵抗があるという回答は約25%だったので、子供よりも大人に食べられないという人が多いようです。食べられない理由として「他人の手に付いているバイ菌を想像してしまう」「他人の体温や汗が付いていて不潔」などが挙げられますが、他人のおにぎりが食べられないという人は、特別衛生面で潔癖症なのでしょうか?
なぜか「他人のおにぎり」には不潔な印象が付きまとう
例えば「他人のおにぎりは食べられないが、自分の母親のおにぎりは大丈夫」という場合、必ずしも自分の母親の手が他人の手よりも衛生的だという根拠はありません。また、両者とも握る前に手を洗えば、衛生面でも同様に安全なわけですから、ことさらこだわることもないはずです。ところが、なぜか「他人のおにぎり」には不潔な印象が付きまとうのです。
理屈ではわかっていても、どうしても気になってしまう「不潔感」や「バイ菌」とは、何を意味しているのでしょうか。母親が赤ん坊に食事をさせている時、固いおかずを自分の口で咀嚼して柔らかくしてから与える場面を見たことがあると思います。また、赤ちゃんの残したおかずや口についたご飯粒を母親が口にすることも、ごく自然に見られる光景です。この場合、母親に「衛生面で不潔」だという思いはないでしょう。しかし、それがわが子でなく見知らぬ子の場合や、ましてや恋人でもない限り、見知らぬ大人に対してできる行為ではありません。
相手と自分の「距離感」や「関係性」が表現されている
そこで感じる「親密さ」や「嫌悪感」には、相手と自分の「距離感」や「関係性」が表現されています。相手と自分が「母と子」や「恋人」の場合のように一体化している場合、相手を自分の延長のように感じています。そこでは、「生身」の温かさが心地よく感じられるのです。
しかし、同時にそれは自他の「境界」をなくすことでもあるので、不安が生じてきます。思春期の子供が、いつまでも親の庇護と世話に浸っていれば、自分が吞み込まれる不安を感じて、反抗を通じて親子の間に境界線を引こうとするのも同様でしょう。
「他人の生身性」に対する「不安」が投影されている
「おにぎり」や「おむすび」というのは象徴的に見れば「(関係を)結ぶ・固める」という意味を持っています。手の温もりや不揃いな形は、握り手の「生身」を感じさせます。そのおにぎりを口にする関係は、生身の一体感や関係性を受け入れた「われわれ」関係だと言えます。
「同じ釜の飯を食べた仲間」というのも同様でしょう。そこに「不潔」や「バイ菌」を感じるとしたら、それは「他人の生身性」に対する「不安」が投影されていると考えられます。もしかしたら、「生身の関わり」よりもLINEやメールのやり取りが絆の確認となっている現代の「デジタルな人間関係」が反映されているのかもしれません。
その不安を「われわれ」という一体感で解消するか、境界を引き「われ」を確認することで解消するかは、どちらが好ましいというものでもなく、その人の対人関係の持ち方によります。冒頭の調査で小学生の場合は25%という割合であった「食べられない派」が、大人になると47.8%に増加したのも、成長するにつれ「自分」と「相手」の関係や距離を意識するようになるからだ、と説明することもできます。年齢に応じて対人関係の持ち方も変化することを考えると、さらに細かく年齢や性格別に調べてみれば興味深い結果が得られるかもしれません。
(岸井 謙児/臨床心理士・スクールカウンセラー)