トランプ大統領でTPPの発効が危ぶまれる状況に
米国の次期大統領がトランプ氏に決まったことで、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)の発効が危ぶまれる状況になっています。
トランプ氏は、これまで一貫して自由貿易協定に反対の立場をとり、選挙期間中に「我々は強盗にあった貯金箱みたいなものだ」と支持者集会で語るなどして、TPPからの離脱を表明しています。
そのため、TPP参加12ヶ国の国内総生産(GDP)合計のうち約60%を占める米国が離脱した場合、発効に必要な85%に達しないことが確実になりました。
こうしたトランプ氏の姿勢に対して、「トランプ氏は誤った判断をしている。米国の保護主義が進むと、その影響で各国の景気が冷え込み、世界経済を足元から揺るがせかねない」といった批判的論調が、大手メディアを中心に見られます。
トランプ氏の人種差別的な発言などもあって、彼の政策全体が危険なものに思えることに加え、語感的にも「自由」に対して「保護」という響きは、時代に逆行したイメージを持ちやすいために、多くの人は「保護主義=悪」と捉えているのではないでしょうか。
しかし、「自由貿易を推進することが望ましくて、保護貿易に走ることが悪だ」と単純に言い切れないところに、この問題の難しさがあります。
自由貿易の推進だけが本当に望ましいあり方なのか
アメリカはこれまで、あらゆる規制を取り払う新自由主義を推進し、歯止めのないグローバル化を牽引してきました。
なぜなら、国家の垣根を低くし政府の介入を排した自由貿易と、市場原理に基づいた政策こそが、経済の成長を促し、結果的に「最大多数の最大幸福」を実現すると信じていたからです。
ところが、新自由主義的経済社会に転換して以降、世界的に経済成長率は大幅に鈍化しています。
その一方で、富の偏在が進み、格差が広がる一方の社会が生み出されているのです。
先進国全体の成長率は、1960年から80年の平均値が3.2%だったのに対して、新自由主義のもとにグローバル化した1980年から2010年の平均値は1.8%と、半分近くまで下落しました。
なぜ成長を実現するための新自由主義が、逆に成長を鈍化させてしまったのでしょうか。
国内だけで完結していた経済が、自由貿易に移行していくことで、国内市場だけではなく海外市場を取り込めるために、当初は市場のパイが拡大するという恩恵がありました。
けれども、次第に国内向け生産より国外向け生産の比重が高まるにつれて、「企業が支払う賃金は、国内需要を生み出す」という意義が薄れていきます。
むしろ賃金は、投資からコストへと変化して、なるべくカットして少なくすべきものと見なされるようになったのです。
そしてさらにグローバル化と自由貿易が進行し、すべての国と企業が賃金を単なるコストとみなすようになると、生産拠点を自国からコストが低い新興国へ移転し、その結果賃金が下がり、消費者の購買力が低下して、世界全体の需要が縮小する負の連鎖に陥りました。
この世界的な需要不足を補うための調整役を一手に担ってきたのが、米国の過剰消費だったのです。米国は、大量の国債を発行して、その借金を日本や中国を中心に世界各国が支えてきました。
しかし、リーマンショックによって、その歪みが表沙汰になり、これ以上世界の消費者役を演じることが負担になっている現実が、トランプ氏の保護主義への転換に繋がっています。
米国が保護主義を選択した場合のメリットとデメリット
ただし、現実的には米国が保護主義を実現することは、相当難しい状況です。
なぜなら、以前に比べると改善したとはいえ、まだまだ輸出に比べて輸入が圧倒的に多い貿易赤字が続いているからです。
いま米国が保護主義へ移行すると、最初に生活水準の大幅な低下という痛みが発生します。
これは、過去数十年間、借金漬けで過剰消費な生活を謳歌してきたアメリカ人には耐えられないはずです。
では反対に、保護主義を採用した場合、どのようなメリットがあるのでしょうか。
関税や輸入制限枠を設けることにより保護主義に移行することで、自国の産業を振興し、賃金水準を引き上げることで購買力を強化し、内需を拡大することで、不足していた需要を創出することが可能になります。
したがって、ここで言う「保護主義」とは、決して排外主義的でナショナリスティックな政策を意味しません。
オール・オア・ナッシングの極端な世界ではなく、世界経済の病状を見定め、再生のために必要に応じて、一時的かつ合理的に保護主義を採用するというブラグマティックな判断こそが大切なのです。
19世紀末、欧州は経済成長を遂げて、その後各国は自由貿易に段階的に移行していきましたが、それも保護主義によって需要が活性化され、経済発展を遂げたからこそ、自由貿易への移行が可能になったわけです。
自由貿易は全ての人にとってメリットがあるわけではない
ところが、自由貿易か保護主義かの議論は建設的に進みません。
なぜなら、自由貿易を提唱する人と保護主義を提唱する人の立ち位置が大きく異なるからです。
自由貿易の提唱者は、教条主義的で、「いついかなるときでも、自由貿易が唯一の正しい方法である」と信じて疑いません。
でも、現下の世界経済にとって必要な態度は、正しい教条を決定することではなく、歴史の局面ごとに、それぞれ異なる解決策が必要だというスタンスをとり、いい意味で功利主義的に処方箋を考えることなのです。
また、自由貿易やグローバリズムとは、良くも悪くも経済主体としての多国籍企業にとって正義にはなり得ても、国民経済を第一に重視すべき政治においては相容れない部分が多いものであることも忘れてはなりません。
日本はTPP法案を可決しましたが、その是非を考えるヒントとして、最後に、下村治氏著『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』(文春文庫 2009年)からの一節を引用しておきます。
経済活動はその国の国民が生きて行くためにある。国民の生活をいかに向上させるか、雇用をいかに高めるか、したがって、付加価値生産性の高い就業機会をいかにしてつくるか、ということが経済の基本でなければならない。(中略)
各国がまず自己の経済を確立し、その上で利益を互いに増進できる形で国際経済が運営される。(中略)
自由貿易というのは、そういう国際経済の中で選択できる一つの選択肢にすぎない。決して、自由貿易にさえすれば世界経済がうまくいくというものではない。
ましてや、自由貿易のために政治経済が存在するのでは決してない。それなのに、あたかも自由貿易が人類最高の知恵であり宝であり、犯すべからざる神聖な領域であるかのように言うのは、一体どういう思考の仕方をしているのだろうか。
むしろ、敢えて言うなら保護主義こそ国際経済の基本ではないだろうか。まず自国の経済を確立するには弱い部分を保護する必要がある。(前掲書 p103~p104)
(清水 泰志/経営コンサルタント)