裁判員裁判の死刑判決が破棄されることに 裁判員裁判を行う意味は?
今回の2つの裁判については、死刑を選択した一審の裁判員裁判の結論が高裁の控訴審で無期懲役になったことに対して、裁判員裁判を導入した意味が無いのではないか、あるいは、殺人犯は死刑にすべきなのに高裁が覆したのはおかしい、ということで問題とされているのでしょう。
そもそも論ですが、裁判員制度は、被告人に重い処罰を加えるための制度ではありません。みんなで寄って集って、犯人であると指された人に対して制裁を加えるような人民裁判を目的とするものでもないです。
裁判員制度の法律上の目的は、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資するということが挙げられています。
裁判員法の立法過程では、司法に国民の常識を反映させるということが言われていました。
今回の高裁判決への非難は、裁判員制度のこのような目的や、刑事裁判の手続への誤解に基づくもののように思えます。
刑事裁判の手続
刑事裁判は、被告人を有罪だという検察官の主張についてそれを裏付ける証拠があるといえるか、つまり、黒(有罪)と断定できるかどうかを判断する手続です。
黒か白(無罪)を判断するものではありません。
無実と確信できなくても、いわば灰色でも、黒と断定できないのであれば無罪判決にするというのが刑事裁判の大原則です。
この黒と断定できるかどうか、つまり検察官の主張する犯罪事実が認められるかどうかの事実認定の判断過程に、国民の常識を入れるというのは意義があるのかもしれません。
裁判員制度の導入により、冤罪・誤判の防止に結果的に役立った事案もあるという見解もあります。
刑の量定を裁判員裁判で決定するのは難しい
しかし、犯罪の刑が、どれくらいが妥当なのかというのは、国民の常識というもので判断できるものではないでしょう。
たとえば、殺人罪の刑について判断することが一般常識の範囲内の事柄といえるほど、個々の国民の周りで殺人罪が発生しその刑を判断している状況ではないでしょう。
さらに、量刑については、同じ犯罪での他の事件との公平性も問題になりますので、かなり専門的な判断が必要です。
今回問題となった通り魔殺人や小学生の殺人について、死刑を下すべきという気持ちには私自身も同感です。
ただし、個別の事件について裁判の記録を見ないで、情報が取捨された報道だけを見聞きしてある事件の刑が重いのか軽いのかを論評するのは慎重にならざるを得ません。
2つの事件について、地裁と高裁のそれぞれの結論のどちらか(死刑か無期懲役か)が妥当なのかは、報道の情報のみしか知らない人には断定できないですし、すべきでないでしょう。
控訴の意義
控訴は、一審の判断に間違いがないかを判断する役割がありますので、裁判員裁判の結論が見直されることは一般論として当然なことだと思います。
そもそも裁判員は、ランダムに候補者となった中から選ばれたに過ぎませんから、裁判員裁判の結果に控訴審を縛るだけの正当性はありません。
ただ、裁判員裁判の場合に限りませんが、「疑わしきは被告人の利益に」の原則からすれば、一審の下した判断を控訴審で被告人に不利益に変更するのはより慎重になるべきです。
裁判員制度のあり方を見直すべきでは
平成21年5月に裁判員制度が始まってから8年ほど経過しました。
この際、裁判員制度を存続すべきかどうかに遡って検討すべきでしょう。
私は、裁判員に当たった国民に時間的あるいは精神的に大きな負担を課す裁判員制度は廃止すべきだと考えています。
もし国民が裁判に参加する制度を続けるとすれば、国や地方自治体の行為が問題となる行政訴訟や国賠訴訟に参加してもらうようにすべきでしょう。
刑事事件で裁判員制度を続けるとすれば、裁判員の関与は有罪かどうかの判断までで量刑判断はしないようにする、対象事件を否認事件に限る、裁判員をした人の判決後の守秘義務の緩和、といったことなどの改善が必要だと思います。
(林 朋寛/弁護士)