「書く力」がこれからますます求められる
国語を教える中で重要な要素の一つに「作文」があります。その名を耳にするだけで顔をしかめる子どもも多いのですが、作文を書く力を身につけることは、成長期の子どもにとって非常に大きな力につながりますから、私の塾でも重視しておりますし、今後はますます、「書く力」が求められることになっていくでしょう。
その契機の一つは以前にもお話しした、2020年度からの「大学入学共通テスト(仮称)」です。従来の「選択肢の中から正答を見つける」という、用意された答えの中から正しいものを選び出す形のテストでなく、文章の示している内容を正確にとらえて記述する内容で、これまでのテスト対策式の勉強法では、対応は難しいと考えられます。
同テストの「モデル問題例」は、すでにその第1期受験生となるべき現中学3年生の授業で、試してみました。やはり、日頃から「自分で考え、その内容をまとめて書く」勉強ができている生徒ほど、取り組みが柔軟で、対応力もすぐれています。
「作文で得られる力」とは、まさにこの「自ら能動的に対象をとらえ、思考し、整理して書き上げる力」、すなわち「思考力」「判断力」、「表現力」にほかならないのです。
「つまずき」はなぜ起こるのか
冒頭でも述べた通り、作文と聞いて「顔をしかめる子」が、昔も今も多くいます。自分の感じたことを誰かに伝えたい、自分のことを表現したいという欲求を、多くの「人」が本来的に有しているにもかかわらず、です。
「表現したい」気持ちがそもそも多くの人に本来的にあるのだ、ということは、ものごころついた子どもが、お母さんやお父さんにあれこれ見て来たものについて話して聞かせたがること、そしてまた、人生を振り返る年代になった方たちが、「自分史」をはじめとして自己表現に力を注がれる、その両極が、雄弁に物語っています。
しかしある時点から、「作文」を書かなければならない立場の子どもたちは、そのことを苦にするようになるのです。それはなぜなのか?
国語教育の分野でもしばしば指摘されている通り、概観としては、「自己表現」の階段を上る過程の子どもたちが、「踊り場」とも言える年代ごと、あるいは個別の体験ごとのさまざまな局面で、つまずくきっかけを与えられてしまっているからです(これが固定のものでなく、百人百様のターニングポイントがあるため、「何がその子のつまずきの原因となったのか」を明確に指摘しかねる、大きな悩みどころなのてすが)。
ここでは概括的に、そのつまずきのきっかけをご紹介しましょう。
はじめに考えられるのは、「思ったことを、好きなように書きなさい」と言われて書いたのに、細かい誤りの指摘があり(最初は「誤字」にはじまり、指示語や主述など、どんどん増えます)、それは「こうすればよい」と正しながら、「次に間違えなければいいよ」と指導する程度で良いのに、決定的な誤りのように「×」をつけられてしまうことです。
次に、もっと大きな問題として、先生の主観的な「正誤の判断」で、生徒が自分の考えを否定されることがあります。作文でこんなことを書いてはいけない、というたぐいの「決めつけ」です。
またさらに、子どものためにならないのは、子どもが一生懸命書いた内容が、「(コンクールなどで)評価されるか否か」という尺度によって、採点、講評されることです。もちろん本人が「コンクールに出したい」と思って書いたものならばかまいません。しかし、そうではない子たちの作文、感想文までもが、同じ評価基準で「良し悪し」の評価にさらされるのは、作文という、子どもたちのためになる貴重な国語学習の機会であり、成長過程に不可欠である経験の場を、著しく変質させてしまうことにほかならないのです。従って、私は入選、入賞を目的に書き方の指導をすることには、反対の立場です。
作文指導のあるべき姿
本来、作文の書き方として指導すべきは、まずそもそも書く立場の生徒たちに「書きたい気持ち」「書きたいという目的意識」を持たせ、そのための第一歩、第二歩の道すじを示して、実践させることが重要でしょう。
その上で、その表現の手段として、起承転結など「相手に自分の意図がきちんと伝わる文章の書き方」を身につけさせることが必要となります。「文章全体のまとめ方」を指導する、このことが、自分で考え、整理した内容を、読み手に伝わるように表現する「表現力」の指導の要諦です。
そのために「現場」で重要なことは、生徒一人一人をその気にさせ、さらに「こういうふうに書きはじめればいい」という入り口を、わかりやすく差し出してあげることなのです。
ご家庭でできる指導のポイント
さて、ではご家庭での指導について述べてみます。
「作文」に関してお父さんお母さんがしてあげられることは、前段でご紹介した「入り口」を、お子さんに一番合った切り口で、提示してあげることでしょう。
まずはお母さんも、お父さんも、「こうしなければいけないのではないのか」という先入観を、捨てて下さい。願わくは、お父さんとお母さんがそれぞれに、「自分はこうした」というちがうやり方を示してあげることですが、そうでなくてもいいのです。
そしてお子さんと、「この場面できみはどう思ったの?」ということを、聞いて下さい。そこでお子さんが「思った」ことは、正解でも不正解でもありません。そのときお子さんが感じた「真実」なのです。それを言葉にして「表現」することが、国語や作文の、もっとも重要な過程です。
起承転結の「転」を生かす
もちろん、「一人よがり(独善的)」な作文になることは、避けるべきです。そのために比較的容易で有効なのは、起承転結の「転」のくだりを、うまく使うことです。
「起」と「承」は、「結」に向かって意図することを書きすすめて行く段階ですから、ある程度、書き手の思いが強く表れていてもいいでしょう。ただそのままでは一本調子で、一人よがりに陥りやすいので、「転」のところで、疑問を提示したり、ほかの人を登場させたり、メリハリをつけるのです。
このメリハリをつける場面こそ、第三者であり、大人であるご両親の出番です。書いている本人は客観的に自分の文章を見ることができませんから、「転」のところで、「その時○○君はどうしたの?」などの問いかけをしてあげると、「あ、そうだ」と反応して、生き生きとつづきを書きすすめるということが、私の指導上でもよくあります。こんなところが、ご家庭での指導の参考になるかと思います。
ちょっとした工夫と経験で、作文は上達する
思ったこと、考えたことを、きちんと相手に伝わるように、それでいて形式的な制約にとらわれることなく、すらすらと書けるようになることが、作文を書く醍醐味です。時につまずくことがあっても、つまずきっぱなしにならないよう、お父さんお母さんのサポートも必要です。
まとまりと読みどころのある文章を書くことは、やさしいことではありませんが、ちょっとした工夫の仕方や切り口をいくつか持つこと、そして文章自体をたくさん書くことで、身につくものです。お子さんたちが作文を通して大きな力を身につけられるよう、私どももお手伝いをしたいと思います。
(小田原 漂情/塾教師、歌人・小説家)