全く本を読まない大学生の増加、原因は生活習慣の変化
「読書時間0分の大学生」が5割を超えたという、全国大学生活協同組合連合会による「第53回学生生活実態調査」(以下、「生活実態調査」とします)の結果が、2月の末に発表され、話題になりました。4年前のこの時期、「本を読まない大学生が4割を超えた」ということで、私はアスクミーJIJICOに書いています
(本離れの元凶は「学校の国語教育」 )。それがわずか4年間で1割も増え、5割を超えたのですから、たしかにインパクトのある調査結果だと言えるでしょう。
その原因は、大学入学前の読書傾向、生活習慣にあるだろうと、「生活実態調査」は分析しています。読書時間と勉強時間は分けられており、大学の勉強のために書物を読む時間とは別の(こちらは勉強時間に含まれるでしょう)、生活部面の中で読書に振り向ける時間を対象にしていますから、それまで本を読んでいなかった人が、大学生になったからといってすぐ「読書」をはじめるはずもなく、高校時代までの読書傾向、生活習慣に原因を求めることは、間違っていないと思います。
中高での国語教育は本当に「文学偏重」なのか?
せっかくの機会ですから、本稿ではその「大学生になる前の、高校生までの環境」のことを、考えてみたいと思います。4年前の記事では、幼少時からデジタル機器に囲まれていること、また高校での勉強が「評論主体」、かつ「正解を求める勉強」が主流であることに、「読書離れ」の一因があるのではないかということを、指摘しました。
それから4年、社会のデジタル化はさらに進んでいるわけですが、そのことはいったん措き、大学入試と高校での勉強について、私見を述べたいと思います。まず考えたいのは、3年後(年度として)から実施される予定の「大学入学共通テスト(新テスト)」についてです。
現在実施されている「大学入試センター試験」に代えて「大学入学共通テスト」が導入されることを当初報じた報道の中で気になったのは、今までの高校の国語教育がまるで「文学偏重」であるかのような論調の記事が、複数みられたことです。そして公開された「モデル問題例」では、地方公共団体のガイドラインや、契約書などがたたき台とされていました。そのことだけを批判するつもりはありません。
「詩」の授業をしない一部「進学校」の実態に疑問
しかし、広く「国語教育のあるべき姿」を考える時、真に気を配って欲しいのは、大学受験を一つの目標として進められる、中学・高校(中等教育)での国語指導の実態についてです。
私立中高一貫校の中でもいわゆる「難関(進学)校」にお子さんを通わせておられる保護者の方はご存じかと思いますが、難関校と言われる多くの私立中学では、中学生でも「詩」(とくに自由詩)の授業をしない学校が、多くあります。
十代の中でも感性のやわらかい中1・中2で詩を学ぶことには、きわめて大きな効果があるにもかかわらず、です。次いで小説が、やわらかい「心」に働きかけ、「言葉」の力を身につけさせる、この上ないテキストであるのです。
「大学入学共通テスト」の平成29年施行調査では小説も出題されていますが、「必ずしもこのまま受け継がれるものではない」とされています。大学生の半数が読書をしないという調査結果が出ている現在、もし「大学入学共通テスト」で小説が出題されないなどの事態になれば、いわゆる進学校での国語指導がどのような方向にシフトするのか、結果は火を見るより明らかでしょう。
よしんば、それが今後の教育行政の一時期の方向性として避け得ないものであるとしても、「読書時間0の大学生が過半数」である事実、またそのような若者たちが社会の主流を占める20年後、30年後のわが国のありようを真摯に考えるのであれば、ことは腕組みして見守っているだけで良い事態だとは、思えません。今後の方向次第では、取り返しのつかない状況を招来しかねないのです。
高校までの生活習慣での「ICT」とのかかわりを検討すべき
いま一つ、「生活実態調査」の中で、「読書時間0」に対する「スマホの影響」について、「読書時間減少にはスマホ時間による直接的な強い効果はみられない(効果があるといってもきわめて弱い)」とされていますが、これについてもひと言申し述べておきます。
調査では、大学生の、日常生活の中での「(1)勉強時間」「(2)読書時間・スマートフォン利用時間」のデータから、「スマホの影響はほとんどないか、あっても軽微」と結論づけているようです。
しかしその調査でも、読書をしない原因として高校までの習慣が大きいと論評されています。習慣ははじめに述べた通り突然変わるものではありませんから、高校までの生活習慣の中でスマホがどれだけのウェイトを占めているのかを考慮しなければ、結論を出すことはできないのではないかと思います。
さらに、中学や高校でもiPadやタブレットを駆使した授業が増大する中、考慮すべきは「スマホ」だけでなく、「ICT」と総称されるすべての領域が対象であるべきではないでしょうか。
もちろん私は、そうしたICT全盛の社会の中で、どのように「国語教育」を有機化すべきか、これからも全力で問い、実践して行く立場にあることを表明して、この一文の結びとさせていただきます。
(小田原 漂情/塾教師、歌人・小説家)