近年、終活に対する印象が変わってきており、「初めて聞いたときは縁起でもないと思っていたが、今はエンディングノートを書くことに違和感を覚えなくなった」というようなお声をセミナー受講者の方から聞くようになりました。 片づけをしたり、重要書類の在り処やお墓や葬儀に関する連絡事項をエンディングノートに書いておいたり、遺言書を準備したりしておけば家族も助かりますし、書いた本人も安心です。しかし、家族にとっての利便性や本人の安心感だけが終活の良さではありません。
初めて終活という言葉が使われたのは、週刊誌の特集記事でした。その記事においては「死に支度」だけを意味しているようでしたが、その後終活を牽引してきた終活カウンセラー協会においては、「人生の終焉を考えることを通じて、自分を見つめ今をよりよく自分らしく生きる活動」と終活を定義しています。たしかに、実際に終活を実践した方が○○を片付けた、やっと改葬が片付いた、と以前より数段明るい顔になって報告してくれることがあります。なぜ人生の終わりに備える行動が「自分らしくよりよく生きる」ことにつながるのか、ここではこの定義の根拠を考えてみます。
普段、人はどのくらい先のことを考えて生活しているでしょうか。明日、来週、来月…、具体的な予定がスケジュール帳に入っているのはせいぜい1,2か月先くらいまでではないでしょうか。そして強く意識するのは、数日先のことくらいまでかもしれません。 また、嫌なことがあった時には、過ぎた日のことに囚われてしまう日々もあるでしょうし、その事柄によってはそれが長引くこともあるでしょう。言い換えると、人は今日を中心とした近い未来と過去を意識して生きていると言えます。
しかし、終活をするということは、深さの差こそあれ、誰もが人生の最後の日を意識することになります。その際、昨日今日明日を考える時とは違う見方が必要になります。人生の時間軸が一本の道であると想像してみてください。昨日は簡単に振り返って見ることができるでしょうし、明日も前を向けばすぐそこです。 ところが、どれだけ先か分からない人生の終わりや人生の全体像は同じ見方では見えません。空を飛ぶ鳥のように、上から全体を見渡すようにイメージする必要があります。このような物の見方を「俯瞰(ふかん)する」と言います。 人生を俯瞰すると、生まれた時から誰に大事にされ、誰を大事にして、何と闘ってきたか、或いは努力をして成功したり、努力しても失敗したり、時には頑張れなくなったりした日々もよみがえってくるでしょう。
このように全体視をする機会が、「これから終わりまでをどう過ごし、どのような人生にして、どのような自分でいたいか」を考えるきっかけとなるのです。なぜなら、この振り返りによって、自分に足りないものや、どうしても生きている内に達成したいことなどに気づきやすくなるからです。
ただ、いかに俯瞰しようとも、どこに終わりがあるかは誰にも見えません。しかし、確かにいつか終わることを改めて知ることで、誰でもない自分の人生そのものの重さを感じ、どう過ごしていくかを考える。それこそが終活の良さと言えるのです。
このような人生の見方については、年齢に関係なく、誰もが時々意識すべき見方ではないかと考えています。筆者の私見で言えば、もし若い時に、生死を含めた人生全体に想いを馳せることができたなら、若い内に真剣で濃密な人生設計が可能になると確信しています。
さて、そろそろ終活をというときに、そういう大きな視点を持つのと同様に、現実的な心配事をなくしておくことはもちろん重要です。心配事を放置したままではやりたいことに対して集中を欠いてしまう可能性がありますので、相続のこと、片づけのこと、お墓のことなど、気がかりがあれば、早めに解決しておきましょう。 「何からやればいいですか」と聞かれることがありますが、皆さんの心配事は事情によりそれぞれなので、個々に異なります。一刻も早く遺言書を準備した方が良い方もおいででしょうし、お墓の改葬が急務の方もおいででしょう。それらをどう始めればいいか分からなければ、終活カウンセラーや各専門家に相談してみるのも良いでしょう。
しかしながら、実はその「相談をする」という第一歩がなかなか踏み出せないようなのです。終活に関して、案外一番難しいのは「実際に腰を上げる」ことなのかもしれません。せっかく必要性に気づいたのに、何も解決しないのはとてももったいないことです。 これからをよりよく生きるため、終活においては「決断し実行する力」と「人生を俯瞰する見方」が不可欠であることを、ぜひ記憶に留めていただければと思います。
(薩野 京子/終活カウンセラー)