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42歳で乳がんが発覚した私が「生かしてもらっているのに、消えたい」と思ったワケ

女子SPA! 2024年7月1日 8時45分

 2016年、42歳のクリスマスイブに突如乳がん宣告。(ステージⅡB)。晴天の霹靂だった「がん宣告」から約1年間、泣いたり笑ったり怒涛の日々を駆け抜けた、私のがん治療ドキュメンタリーを連載でお届けしています。

※治療方針や、医師や看護師の発言は筆者の病状等を踏まえてのものであり、すべての患者さんに当てはまるものではありません。また、薬の副作用には個人差があります。

◆4年生で“繰り下がり引き算”ができない息子に驚愕

 乳がんの治療中に夫婦関係にヒビが入り、メンタル絶不調になったわたし。そこにさらに「息子の進路」という新たな悩みが増えてしまいます。

 振り返ってみると、この時期はもしかしたら「さまざまな問題を一気に解決する時期」だったのかもしれません。

 当時息子は小学校4年生でした。それまで勉強に遅れている感じもなかったのですが、ある日たまたま計算問題を見ると、繰り下がりの引き算ができていないことに気づいてしまいました。

 わたし自身は勉強は嫌いではなく割と進んでやるほうだったので、息子にうるさく言わずとも勝手にやるようになると思っていました。なのでおとなしい息子がのびのびできるよう、幼稚園時代から勉強はうるさく言わず育ててきました。が、4年生で引き算の繰り下がりができないのは衝撃。

 今までも家で1秒たりとも勉強せず、小学校に入りたての頃に宿題の漢字プリント1枚をやりなさいというと嫌がって身体をかきむしり発狂……息子は「強制される」ことが大嫌いな性格です。

 わたしもわたしで、無理強いしてまでやっても無駄、そのうち自主的にやるようになるだろうと楽観視していました。

◆受験に関する情報を調べまくる日々

 慌ててあれこれ教育関連のことを調べてみました。いまどきの学校では昔と違い、勉強をできるまでやらせるなどの面倒を見る風潮ではないそうなのです。「各家庭それぞれの方針で」ということらしく、それぞれの家庭の方針で、公文とか塾とかに行かせることが暗黙の了解らしいのです。

 結婚を機に引っ越した土地なのでピンと来ていませんでしたが、わが家のある地域は新興住宅地で特に教育熱が高いそう。さらに学区の公立中学は荒れ気味とのこと……。地域の公立を避け、良い環境で育てたいと私立中学に進学するため中学受験をする子が多いというのも今さら知りました。

 仕事もやめ、時間だけはあったので、なんとかせねばとそこで高校受験や中学受験について調べていました。すると高校受験は普段の内申点が重要。提出物などを出さない子は特に不利だそうで、すべての手紙がランドセルの底に蛇腹折りになっており沈んでいる息子にはかなり不利な受験であろうと思われました。

 だったら中学受験させたほうがいいのではないかと調べると、中学受験をするなら4年生から始めるのが通常とのこと。なんでも中学受験の試験の内容は、小学校で教わる内容とまったく違うので、それ専門の塾に通わなければならないとのこと。

 そしてそのスタートは、3年生の2月からなのだそうです。当時息子は4年生の秋。ということは、もうスタート時期さえ逃していることに気づきました。けれど小5くらいから始める人もおり、そのあたりは個人差もあるということでした。

 私立中学は、学校により教育方針が違い、環境を選べるのが魅力。息子はのんびり屋でマイペース、からかわれやすいこともあり、小学校でもときどきトラブルがありました。中学生は特に、いじめや不登校などが増える時期。まだ先のこととはいえ正直心配でした。息子には手厚い環境で学生時代を楽しく過ごしてほしい……。

◆息子の進路の不安を夫に話すと…

 時間があるからこそ余計なことを考えてしまい、メンタルが絶不調なのに、今度は息子の心配をし始めてしまいました。けれど考え始めると止まりません。私立中学に入れるなら、もう急がなくちゃいけない。

 夫にそれを話すと、怒り出しました。「引っ越しでさえ唐突だったのに、今度は中学受験だなんて何を突然言い出すんだ!」と。もう次から次へと新しいことをするな!と。

 子どもの教育に関してはわたしがすべてやっていたのと、夫は私立中学への進学に関して反対ではなかったのでそれ以上は何も言いませんでしたが、ただ教育にはまったくの無関心。夫に細かく相談するわけにもいかず、ひとりで悩むしかありませんでした。

 自分でも、なんでまたこの時期に、息子の勉強のことに気づいてしまったのだろうと思いました。ですが、子どもの成長は止まりません。今からなら中学受験の準備もまだ間に合う。逆に今を逃すと取り返しのつかないことになってしまうのではないかと焦りを感じたのです。息子を連れていろいろな塾を見て回りましたが、昔から勉強が嫌いな息子、さらに新しい場所が苦手な息子は良い反応をしてくれません。

 しかも中学受験は親のサポートや家庭学習が不可欠。小さいころから何かを強制されるのが嫌いな息子は、家庭学習を促しても泣いて嫌がっている状態。これでは中学受験どころではありません。

◆「精神腫瘍科」でカウンセリングを受けることに

 もともとネガティブ思考の癖はありましたが、この時期はすべてを悲観的に捉えてしまい、中学受験ができなければ息子はまずいことになる! と考えて塾探しに奔走。無我夢中だったので塾の方もわたしの必死の形相にさぞかし驚かれただろうなと思います。

 勉強しない息子をなんとかしなくてはいけない。絶不調で食欲も落ち、不健康に痩せて顔色も悪く、体力も落ちていたわたしでしたが、家で寝ているわけにはいかない、なんとかせねば、と必死で塾を探しても、うちの子のようにやる気のない子の面倒見てくれる塾は見つからず、行き詰まってしまいました。

 ここからさらにメンタルが不調になっていき、ときどき混乱して頭の整理が追い付かないことが増えてきました。

 当時わたしは、同じ病院に併設されていた「精神腫瘍科」という科にもお世話になっていました。

 がん治療中にメンタル不調に陥る人は少なくなく、メンタルケア専門の「精神腫瘍科」という科が設置されていました。わたしは不眠などのうつ症状も出ていたので精神腫瘍科を紹介され、抗がん剤の点滴を打っている時間を利用してカウンセリングも受けさせてもらっていたのです。

◆布団をかぶって「どうしよう、どうしよう…」

 それまでのカウンセリングでは、夫とのいざこざの中で抱いた罪悪感などを話していましたが、新たに「息子の進路」で頭がいっぱいになってしまったわたしは、カウンセリングでもこの状況を話し、整理してもらうことにしました。

 カウンセラーさんもお子さんの中学受験経験があるようで「中学受験は親も体力と精神力が必要。今の状態で挑戦しなくてもいいのではないか?」など意見をくれました。子どもは私立中学じゃなくてもちゃんと育つよ、と。

 ですが当時のわたしは不安に溺れ、思い込みも強かったのでカウンセラーさんの話さえまともに聞けませんでした。「なんとかしなくちゃ」という気持ちばかり先行して「なんとかなるさ」の視カ点は一切持てなくなっていました。頭はいつもグルグルと考え、もつれ、ときどきパニックも起こします。

 なんとなしなくちゃと思えど何も案が浮かばず、布団をかぶって「どうしよう、どうしよう」と思っているだけで1日が過ぎる日もありました。口を開けば「塾どうしよう」と言い出すありさまになり、常に何かを考えている状態で、目もうつろな状態でした。

 この当時は食べることさえ面倒になっていました。なんとか晩ごはんは作りましたが、調子の悪いときには炒めて市販の「クックドゥ」のような調味料を入れるだけのもの一品作るのがやっと。

 昼間、夫と息子がいないときには食事も面倒で、空腹になったらフラフラとキッチンに行って、手づかみで白米を食べたこともありました。このころは食べ物の味も感じられないほどになっていました。

 ときどき夫や母が心配して「何かおいしいものでも食べに行こう」と言ってくれるのですが、美味しいものなんか食べたいと思えず、食べたところで味もせず、ただひたすら家で寝ていたい、明るい光や音楽さえうるさく感じ、部屋を真っ暗にして横になる日々。

◆生きていることに感謝できない自分を責め続ける

 でも、横になったところで眠れません。その状態がつらすぎて「消えてしまいたい」とずっと思っていました。矛盾していることもわかっていました。「生きるためにがんの治療をしているのに、消えたら意味ないじゃん」「でも今の状態が辛いし不安で、じっとしているのもつらい」……。

 それと同時に抗がん剤のしびれもじわじわと増していきます。必要以上に恐怖心や不安を覚えるようになり、毎回ビクビクしながら抗がん剤の投与に行き、なんとか生活を送っていました。

 そうこうするうちに、パクリタキセルの12回投与が終了。これで抗がん剤治療が終わったのに、すでにメンタルの不調がひどいことになっていたわたしは、嬉しいといった感情さえ持てませんでした。けれど治療はもう少し続きます。

 次は放射線治療。こちらは週5日、月曜日から金曜日まで毎日放射線治療に通う必要がありました。それを4週間。つまり1か月間は放射線治療に通うことになります。都内まで毎日は通えないため、家から近い医療機関に紹介状を書いてもらい、通うことになりました。

 この時期は沼に溺れてしまったような感覚で、息をするのも苦しい時期でした。せっかく手術し、抗がん剤もきっちり終えて、放射線まで来ているのに、生きている喜びなんて感じられない。

 お金をかけて生かしてもらえているのに、生きることに感謝もできず、息子の塾のことばかり考えている自分にも嫌気がさしていましたし、だからといってそれを止められず、そんな自分を責め続ける日々。本当に出口が見つからない状態でした。

 当時の状態をここまでリアルに書くと、読者の皆さんも暗い気持ちになってしまうのではないかと思い、どこまで詳しく書くか躊躇しました。

 ですが、当時のことを冷静に振り返って文章を書けるようになるまでに今は回復しました。乳がんになる前よりずっと今の人生のほうが楽しいです。ですから、この辛すぎた時期も私にとっては必要なことで、大きな転換期としてわたしの人生に、わたし自身の成長の糧になったと心から思えるので、あえてそのままお伝えします。次回以降、徐々に回復する過程もお読みいただければ嬉しいなと思っています。

<文/塩辛いか乃 監修/沢岻美奈子(沢岻美奈子女性医療クリニック院長)>

【監修者:沢岻美奈子】

日本産科婦人科学会認定産婦人科専門医。神戸にある沢岻美奈子女性医療クリニックの院長。子宮がん検診や乳がん検診、骨粗鬆症検診まで女性特有の病気の早期発見のための検診を数多く行なっている。更年期を中心にホルモンや漢方治療も行い女性のヘルスリテラシー向上のために実際の診察室の中での患者さんとのやりとりや女性医療の正しい内容をインスタグラムで毎週配信している

【塩辛いか乃】
世の中の当たり前を疑うアラフィフ主婦ライター。同志社大学文学部英文学科卒。中3繊細マイペース息子と20歳年上の旦那と3人暮らし。乳がんサバイバー(乳房全摘手術・抗がん剤)。趣味はフラメンコ。ラクするための情熱は誰にも負けない効率モンスター。晩酌のお供はイオンのバーリアル。不眠症。note/Twitter:@yukaikayukako

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