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今春、所属事務所から独立したキンタロー。「2年前から辞めたいと伝えていた」39歳で“心機一転”を決意したワケ

女子SPA! 2024年7月16日 15時46分

先日、松竹芸能を退社し、新たな道を歩み始めたキンタロー。さん。

このタイミングで独立した理由とは? 芸人としてのこれまでを振り返っていただきつつ、今後の展望についてお話いただきました。

◆小学生で知ったお笑いの力

インタビュー中も、たびたびモノマネも交えつつ、ユーモアたっぷりに熱い思いを話してくださったキンタロー。さんですが、芸人を志したのは小学3年生のときに出会った先生がきっかけでした。

「とにかくみんなで踊って、先生がいいな、と思った子を壇上に上げていったんです。男子がみんなめちゃくちゃに踊っている中で、当時、わりと寡黙なタイプだった私がギャップで笑いが起きて。それが人生で初めて明確に笑いを取った瞬間でした」

それまで、友だちの輪の中に入ることは苦手だったのに、それをきっかけに一転。「おもしろいんだね」と言って自然と友だちができていくようになりました。

「笑いの力によって友だち作りという難関をクリアしたから、幼いながらに笑いってすごいな、と思ったんです。そこから笑いにとりつかれていたというか。みんなを笑わせていれば、友だちが増える、というところから私の笑いが始まりました」

◆お笑いへの道の途中に社交ダンスがあった

本当なら、高校を卒業したらそのままお笑いに飛び込んでいきたかった……しかし、お笑い芸人は「一握りの人間がなるもの」という意識が強かったこともあり、大学進学を決意します。ただ、どういった道を歩むのかはキンタロー。さん自身も迷っていました。

「海外の大学に行ってみたい、美術も好きだから美大に行きたい……でもこれは親に反対されましたね。『あんたは画家になるのかい?』『高校で海外にホームステイ行かせたのは何のためだったの?』『あんたは何考えてんだ』って泣かれて。確かに親の言うことは間違っていないと思ったので、外大に絞りました。で、やっぱりお笑いの都と言えば大阪だから大阪で探そう、大学の間にお笑いの地頭とか、根を張ろう、と」

ただ、キンタロー。さんにとって、大学はお笑いの道に進むための通過点。芸人になりたいのに英語の大学に通うのでは整合性がない……なら部活で補おうと考え、そこで出会ったのが競技ダンス部でした。

「踊ってするんですけど、顔がすごくよかったんですよ。ハッ!ともうときめいちゃいました、なんだこの顔!って。この顔で踊らなきゃいけない競技、素敵だな、と思って入部を決めました。

芸の肥やしになるもの、芸事に近いこと、と思って探していたので、お笑い研究部があれば絶対にそっちに入っていたと思います。でもなかったから、フラメンコ部とか、チアリーダー部とか、あとアナウンサー部。でも、だいたいの部活は週5だったからだるいな、と思って。競技ダンス部は週2だし、おもしろい顔するし、完璧やん!って。まあ蓋を開けてみたら週5だったんですけどね(笑)」

◆30歳を目前に、お笑いへ

ひとつ芸の肥やしのつもりだった社交ダンス。しかし、猪突猛進タイプだというキンタロー。さんは社交ダンスにのめりこんでいきます。

「私はこのまま社交ダンスで死んでいくんだわ、というぐらいハマっていたんですけど、とにかく全然うまくいかなくて。一番のきっかけは首のヘルニアでした。普通にしていたら、このままやめられないぐらい沼っていたんですけど、そのころ、つきあっていた人と結婚したかったんですよ。でも相手は公務員で全然つれなくて。

きっと私が社交ダンスの講師という不安定な職だから結婚しようって言いにくいんだわと思った、というのもありました。やめたらすぐに振りやがったんですけどね! あいつはダンス講師の女が恋人だというステータスだけで付き合っていたんですよ!(笑)」

無職になって、恋人に振られ、打ちひしがれて……そんなときに友人に声をかけられて、事務の仕事に就きます。そのときが「人生で一番規則正しい生活でした。健康になって、頭も人生で一番まともになった」のだそう。そして改めて自問自答したときに出た答えはお笑いがやりたいということでした。

「いろんなものが削がれていって、フッと座禅を組むような気分になったんですけど、私はチャレンジしないで死んでいくんですか、という自問自答がありました。

当時の私は、友人たちの結婚式の余興に全力をかけていたんですけど、ある日の余興のリハーサルで、私のお笑いを買ってくれていた先輩に『お前、まだこんなところにいたのか』って言われてハッとしたんです。それは『お前なんかとっくに上京してお笑いにチャレンジしていると思ってたよ』という言葉だと思ったので、即座にお笑いのオーディションを探して受けました」

そのときに松竹芸能のオーディションで特待生として合格。

「私の才能を買ってくれたんだわ、と思ったから全てを捨てて上京しました」

◆早く世に出られてよかった

そんなキンタロー。さんが目指していたのは、ギャガ―。

「FUJIWARAの原西さんみたいな瞬発力のある、もう身ひとつで、すぐに出てすぐに笑いがとれる、というのに憧れますね」

ブレイクも早く、あっという間に多くの人が知る芸人へとステップアップしていきます。でも、それが達成できたのは「自分は後がなかったから」だと言います。

「私が養成所に入ったとき、すでに29歳だったんです。周りは年下の子たちが多くてサークルのような雰囲気でした。楽しんでいらっしゃいますね、スクールライフを! という中で(笑)、私はいろんなものを捨ててきてて後がないし、この子たちより寿命が短いって思ったから、もうなりふり構わずチャンスは全部トライしていこう、と。事務所の斡旋のオーディションだとか、来てください、と言われたものは全部受けていました。

自分なりの努力と課した重荷と引き換えにいろいろ学びがありました。純粋にここにいていいんだなって思って。早く世に出れてよかったなって」

でも、すぐにブレイクしたからこその苦労もありました。

「とある先輩芸人に電話で『その出方は一発だよ。気をつけなはれや』って言われて。そんなこと、電話でわざわざ言わなくてもいいのに、と思ったりもしましたね。私を心配してのアドバイスだったと思うのですが、私はもともと自尊心が低いので、そのアドバイスは私のモチベーション的に逆効果だったんです。そういうせめぎ合いの中でとにかくもがいてもがいて今に至ります。一番なりたいことになれたので、いかにここで泳いでいられるか、ですよね」

◆事務所を離れたのは変化を求めたから

ブレイクから10年強。今の目標は「会社を立ち上げて、ちゃんとした事務所として成長していきたいです」。

「実は2年前から辞めたいということは伝えていました。そのとき、ちょうど39歳だったんですけど、29で上京してきて節目で思い切った行動をとったことでの成功体験があったので、今回も変化を求めたかったんです。

もちろん、ありがたく事務所に身を置くという道もあったんですけど、もっと発展していきたかったし、事務所にいたら不可能に近いこともやってみたかったんですよね。ものまねをやっているから、チームを組んでいろいろやりたいときに、前の事務所だと大きいからこそ、他の芸人もいる中で私だけのチームを作るっていうのは難しかったんです。なので私のチームを組みたかった、というのが主な理由です」

「やりたいお笑いは今も変わっていない」と言うキンタロー。さん。それを実現するための独立でもあり、「より一層、パフォーマンス力をアップしていきたい。見せ方をもっと強化して、見てる人に笑いと感動を持ってもらいたいんです」と語ります。

40代に入って、守りに入る人もいる中、キンタロー。さんは進化をやめません。

「冒険がしたかった」という言葉通り、この先に、どのような冒険譚が描かれていくのか。楽しみです。

<取材・文/ふくだりょうこ>

【ふくだりょうこ】
大阪府出身。大学卒業後、ゲームシナリオの執筆を中心にフリーのライターとして活動。たれ耳のうさぎと暮らしている。好きなものはお酒と読書とライブ

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