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大竹しのぶのきついマウントセリフに、有村架純の見せた真骨頂とは?/ドラマ『海のはじまり』

女子SPA! 2024年7月22日 15時46分

月9『海のはじまり』(フジテレビ系 月曜よる9時~)の家族、親子関係は複雑だ。

知らない間に生まれていた子供に出会った者――月岡夏(目黒蓮)。彼の家は父母が再婚していて、いまの母と弟は血がつながっていない。でも家族4人、とても仲良くやっている。

夏の恋人・弥生(有村架純)は過去に堕胎経験がある。

第3話でわかったのは、夏の子供・海(泉谷星奈)の祖母・朱音(大竹しのぶ)は海の母・水季(古川琴音)を不妊治療のすえ42歳でようやく授かったことだった。

◆結婚して子供が生まれて…そういう家族はひとつも存在せず

現代(昭和の後半、平成、令和)を舞台にしたドラマだと、当たり前のように、恋愛あるいは見合いで男女が結婚して子供が生まれて家族生活が営まれているという前提の物語が多かった。が、『海のはじまり』では主要人物にそういう家族がひとつも存在していないのは多様性に配慮してのことか。それは海のランドセルが紺色であることでもわかる。

昭和の時代、男の子は黒、女の子は赤がほぼ決まりであったが、昨今のランドセルはとてもカラフルだ。水季が選んだの?と夏が聞くと自分で選んだと答える海。女の子だからといって赤とかピンクとかを選ぶわけではないのだ。そして、お友達は黄色。ランドセルの色のように家族の形も色々だ。

◆弥生の存在が朱音をピリピリさせる

血のつながっていない母と弟と問題なく仲良くやっている夏だが、海に対してはまだ戸惑いが消せない。

物怖(お)じしない海の対応に慣れないでいると、朱音がフォロー、子供のわかりにくい思考を夏に解説する。

朱音は苦労してやっと授かった水季を失って悲嘆にくれていて、おそらく海は娘の代わりのようにも思えているだろう。だから、海の気持ちを察することが、夏に対しての優位性となる。

でもそれが次第にそうではなくなっていく不安。実父の夏ならまだしも、弥生の存在が朱音をピリピリさせる。

◆弥生は津野とふたり「疎外感」を味わうことに

弥生は弥生で、恋人・夏の子供の母代わりになってみようと思いながらも事は容易ではない。ある日、海の誕生日(今年は海の日ということはオンエアの日の7月15日)夏と弥生と海が三人でお出かけすることになった。

写真に撮ってほしいくらい、いい感じになっていたが、水季の働いていた図書館に行くと、微妙な感じに。弥生は津野(池松壮亮)とふたり「疎外感」を味わうことになる。

水季のいない図書館で親密になっていく夏と海。それは誰にも入り込めない雰囲気だった。

◆瞳にさみしげな表情が朱音と津野はとても似ている

津野は水季とはつきあっていたわけではないが、夏がいない間、最も海にとって父親に近い男性であったはずで。それが血のつながりがないというだけで、自分の重要度が一気に下がったことに傷ついて見える。

朱音と同じ感覚なのだと思う、どこか満たされず、口角が少し下がり、瞳にさみしげな表情が朱音と津野はとても似ている。

だから津野はどうしても夏に対して構えてしまう。「すみません」ばかり連発する海に謝ると「意地悪してる気になって気分悪いんで」からの「謝まんないんかい」の会話はこの回のベスト。

しかも、水季が亡くなったことがまだ整理できず感情がぐちゃぐちゃになっているのだと説明するところも、なるほどなあと思わせる。

◆「生むのも育てるのも大変なの」にそれでも「楽しかった」

朱音の場合は、夏にも、そして弥生にも、対抗心のようなものを抱く。同じく血がつながっていないが、夏の恋人ということで、海に近しくなっていく弥生は、津野と朱音と同じ「外野」のはずが、「内野」になる可能性を秘めている。

帰宅した際、疎外感を抱いたことを隠し「楽しかったです」と微笑む(有村架純得意の、本心を隠して浮かべるものわかりのよさそうな微笑み)と、朱音はかちんとなって「生むのも育てるのも大変なの」と言い返す。

それでも弥生は「楽しかった」と強調してしまうから、ピリピリムードに。ものわかりよさそうだが、芯は強いのが有村架純の得意とする役である。

◆傷が深くなっていく弥生、これぞ有村架純の真骨頂

何も知らない朱音は、弥生が子供を生んだことも育てたこともないとマウントをとるが、生んだことも育てたこともないうえに殺してしまったという重い十字架を背負った弥生は、痛いところをつかれても、なお穏やかそうに毅然(きぜん)と対峙(たいじ)する。

そのとき、弥生のサイドの後れ毛が風にかすかに揺れているのが弥生の気持ちの現れのようだった。第3話は高野舞演出。

だがどんなに意地を張っても(図書館で母のための参考書を借りようと前向きに努力もしている)、いざというとき海は、弥生の差し出した手をスルーして夏のもとに走り、なかなか母の代わりになれないことを思い知らされる。どんどん傷が深くなっていく弥生。これぞ有村架純の真骨頂である。

まだドラマは第3話なので、どこまで傷が深くなるのか、不謹慎ながら楽しみになる(ドラマだからゆるされる嗜虐《しぎゃく》感)。でも、きっと血のつながりを超えて弥生が海と近づいていく物語が待っているはず。

◆いろんなパパとママに育まれ、子供は「すくすく」育つ

海は、水季にパパがふたりいる人もいると聞いていて、夏にもパパとママがふたりずついることを認識した。いろんなパパとママがいる。

ほんとは、津野くんもおばあちゃん(朱音)もパパやママみたいなもので、たくさんパパとママがいるという話なのかなと思うがどうだろう。そうやっていろいろな人に育まれ、子供は「すくすく」育つのだ。

さて。海(sea)に行った海(娘)と夏がさらに近づいていく。夏、いつはじまるの? と聞いた海がいまや、はじまらなくていいから、ずっといてほしいと言う健気(けなげ)。父とか父でないとか関係性ではなく、一緒にいる事実だけが大切。どこからが海? べつにここからが海(父や母)というのはないのではないかという概念。

◆海についつい微笑んでしまう夏の自然な笑顔

写真を撮ろうとして、ここにいてというのにくっついてくる海についつい微笑んでしまう夏の自然な笑顔がよかった。ここは第1話の冒頭、水季がどこまでも行っていいよと娘を解き放つ場面と対称的だ。

第1話で「いるよ。いるから大丈夫。行きたいほうへ行きな」と水季は言うと、ゆっくり、娘のあとを、すこし距離をとりながらついていった。

近づき過ぎるとピントが合わない。ちょっと離れて、でも目は離さない、そんな愛情が家族には必要なのかもしれない。

<文/木俣冬>

【木俣冬】
フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポルタージュ、インタビュー、レビューなどを執筆。ノベライズも手がける。『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』など著書多数、蜷川幸雄『身体的物語論』の企画構成など。Twitter:@kamitonami

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