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「5年前の実際の事件」思わせるセリフに物議も…興収10億円突破の劇場アニメにみる“作り手の覚悟”

女子SPA! 2024年7月23日 15時46分

 2024年6月28日より劇場公開中のアニメ映画『ルックバック』は、公開直後から絶賛の声が続出している。映画.comとFilmarksでは4.3点の高スコアを維持し続け、公開当初は119館と中規模ながら満席近くになる上映館も相次ぎ劇場数は増加。公開4週目を迎えた今もヒットが続き、興行収入は10億円を超えている。

 その『ルックバック』の原作漫画において、また今回のアニメ映画化で再び物議を醸したのは、劇中の「すべてを打ち砕く出来事(事件)」および「2度の修正」だ。その意義は、今のタイミングでアニメ映画を観ればこそ、改めてはっきりとしたのだ。その理由を、『ルックバック』本編のネタバレに触れつつ記していこう。

※以下からは、漫画およびアニメ映画版『ルックバック』本編の結末を含むネタバレに触れています。鑑賞後にお読みください。

◆統合失調症患者への偏見につながりかねない文言の削除

「少年ジャンプ+」で初めて掲載されていたときの『ルックバック』の殺人犯のセリフおよび新聞の見出しは、統合失調症を思わせるものだった。

 殺人犯は「オイ ほらア!! ちげーよ!! 俺のだろ!? 元々オレのをパクったんだっただろ!? ほらな!! お前じゃん やっぱなあ!?」と言い、新聞の見出しには「大学内に飾られている絵画から自分を罵倒する声が聞こえた」と書かれていたのだ。

 新聞の見出しは特に統合失調症を連想させるため、「同様の症状を持つ人が殺人を犯すのではないか」という誤った疑念を抱かせかねない。

 少年ジャンプ+編集部からは「作品内に不適切な表現があるとの指摘を読者の方からいただきました。熟慮の結果、作中の描写が偏見や差別の助長につながることは避けたいと考え、一部修正しました」というアナウンスと共に、このセリフと新聞の見出しが変更になったのだ。

 すでに世に出たフィクションの作品の表現を、受け手側の批判により変更することの是非も、もちろん議論されるべきだろう。だが、特定の精神疾患への差別と偏見を助長をさせてしまう文言を削除すること自体は、正しい判断だったと思うのだ。

◆「京アニ事件」を連想させるセリフは一度は削除されたが…

 もうひとつ、劇中の事件および殺人犯のセリフから多くの人が連想したのが、京都アニメーション放火殺人事件だ。

 実際は場所や殺害方法など異なる点も多いのだが、「被害者が『創作』をしている者」かつ「犯人が『パクられた』と言う」ことなど、同事件を強く思わせることがあったのは事実。その是非もまた議論されるべきではあるし、当時の出来事がフラッシュバックしてしまう、不謹慎であるといった批判が出たのも致し方ないだろう。

 そのことも鑑みたためか、1度目の修正時には、殺人犯のセリフは「オイ 見下しっ 見下しやがって! 絵描いて 馬鹿じゃねえのかああ!? 社会の役に立てねえクセしてさああ!?」となり、新聞の見出しは「『誰でもよかった』と犯人が供述して」となった。

 しかし、単行本での2度目の修正では、殺人犯のセリフは「オイ 見下しっ 見下しやがって! 俺のアイデアだったのに! パクってんじゃねえええええ」となり、新聞の見出しは「被告は『ネットに公開していた絵をパクられた』と供述しており」となった。今回のアニメ映画は、この2度目の修正にならったものになっている。

 つまりは、2度の修正を経て、初出時の統合失調症を連想させる文言は削除されたままの一方で、1度目の修正で削除された殺人犯のセリフの「パクられた」はむしろ強調される形で再び採用されたのだ。さらに1度目の修正時の「見下しやがって」は残るという、「折衷」的な内容に落ち着いたともいえる。

◆「無力感」を前提にしつつも意志・敬愛・鎮魂も示している

 この2度目の修正における公式からの声明は出ていないが、筆者個人としては「伝えたいことは、誰かを傷つける可能性があったとしても、はっきりと打ち出す」という作り手の覚悟を感じた。そうでなければ、京都アニメーション放火殺人事件を連想させる「パクられた」という文言は復活し得ないと思うからだ。

 さらなる根拠が、原作者の藤本タツキが抱えていた「無力感」だ。短編集「17-21」のあとがきで、藤本タツキは『ルックバック』を描いた動機について、東日本大震災直後に被災地のボランティアに行った時から無力感をずっと持ち続けており、「何度か悲しい事件がある度に、自分のやっていること(漫画を描くこと)が何の役にも立たない感覚が大きくなっていった」「そろそろこの気持ちを吐き出してしまいたかった」と語っているのだ。

 明言はされていないが、その「悲しい事件」の中に、おそらくは京都アニメーション放火殺人事件もあったのだろう。そして、『ルックバック』の物語は残された人がそれでも創作を続けていくという「意志」、またはクリエイターへの「敬愛」を強く感じさせるラストへと帰着する。決していたずらに実際の事件を想起させる作劇をしたわけではなく、現実で理不尽に命を落とした人への「鎮魂」の意図も込められているようにも思えたのだ。

 そのアプローチを救いだと思う人がいる一方で、反対に傷ついた人もいるのも事実だ。それは本作のみならず、実際に起こった事件や悲劇を作品に昇華させるクリエイターが苦悩する事柄だろう。

 たとえば、2022年12月に放送されたNHKの『クローズアップ現代』のアニメ映画『すずめの戸締まり』の特集で、新海誠監督は東日本大震災を扱った同作について「創作には暴力性がある」「誰かを傷つけないよう、慎重に傷つく部分を避けて描かれた物語は、誰の心にも触れない」と重い言葉を告げていたこともあった。

◆「見下した」のはかつての主人公の姿でもある

 さらに、1度目の修正時に入れられ、漫画の単行本およびアニメ映画版でも残された殺人犯の「見下しやがって」には重要な意味がある。

 その理由のひとつが、かつての主人公の藤野もまた「見下して」いたからだ。彼女は小学生のときに「ちゃんとした絵を描くのってシロウトには難しいですよ? 学校にもこれない軟弱者に漫画が描けますかねえ?」とイヤな言い方をしていたのだが、その不登校の少女・京本の絵の上手さにショックを受け、その悔しさをバネに漫画に向き合い続け、さらにはその京本が自身の漫画のファンであったと知ると雨の中でスキップするほど嬉しく思い、ついには漫画家という職業についた。

 一時は他者を見下したこともあるものの、自身の努力と「ファンがいたこと」で創作を続けてきた藤野。そうすることができず、見下された(さらにパクられたと思いこんだ)ことが凶行の理由になっていた殺人犯。両者は「合わせ鏡」のような存在なのだ。

 このセリフがあったことで、創作は自身の人生に直結する「希望」にもなるが、誰かにとっては自分も他者も傷つける「呪い」にも転ずることもあるという、極めてシビアかつ残酷な問題提起がされているといってもいいだろう。

◆事件から5年が経ったその日に観た人たちからの投稿も

 劇中ではまるで「IF」のように「殺人犯による凶行を未然に防ぐ」様も描かれるが、現実では結局何も変わらない。京本は生き返ったりはせず、藤野は漫画に向かい続けるしかない。そこからも、本作は原作者の藤本タツキの「漫画を描いていても何の役にもたたない」という無力感を劇中に投影しつつも、それでも創作に向かい続けるという、やはり「意志」を描く作品だとわかるだろう。

 そして、先日の2024年7月18日、京都アニメーション放火殺人事件が5年が経ったその日に、アニメ映画版を鑑賞した人からの(複雑な心境も垣間見えるものの)「今日という日に観てよかった」「今日だからいろんな想いがこみ上げてきた」「あの悲劇を忘れない、二度と起こしてはいけない、祈りを込めて鑑賞」といったSNSでの投稿があった。そこからも「この作品が届くべき人に届けられて良かった」とも強く思うことができた。

 また、今回のアニメ映画ではエンドロールで「朝から夜まで変わる背景」を示すことで、本作が「アニメーションという創作物である」事実をメタフィクション的に示すという構図もある。『ルックバック』は2度の修正もさることながら、「漫画をアニメ映画にする」こと、さらには創作そのものの意義さえも、究極的に感じられる作品でもあったのだ。改めて、本作を作り上げたクリエイターたちの、その意志と覚悟を讃えたい。

<文/ヒナタカ>

【ヒナタカ】
WEB媒体「All About ニュース」「ねとらぼ」「CINEMAS+」、紙媒体『月刊総務』などで記事を執筆中の映画ライター。Xアカウント:@HinatakaJeF

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