福袋の開封やコスメ紹介、育児に関する動画や、1分でフルメイクを仕上げる「1分メイク」などのショート動画が人気のYouTuberあいりさん。現在は47歳、2歳の男の子のママでもあります。
45歳で第一子を出産したあいりさんは、5年間の不妊治療のなかで2度の流産を経験するなど、出産を迎えるまでには多くの不安があったといいます。出産までの道のりや、無痛分娩を選択した理由などについて聞きました。
◆つらいとき、支えてくれた義母の言葉
――妊娠期間を振り返って、どんなことが印象に残っていますか?
あいり:これまでに2回流産を経験していたので、妊娠中はすごく不安でした。そのうち1回は赤ちゃんが亡くなってしまった週数的に手術が必要だったので、出産するまで「ちゃんと育つかな」と心配していました。
つわりも結構大変で、私は吐くのがどうしても怖かったので、吐き気を紛らわせるためにサイダーを飲んだりフリスクなどスーッとするようなものをずっと食べていました。さらに普段とは食べたいと思うものが違っていて、なぜかコンビニのサラダ巻きばかり食べていた時期がありました(笑)。でも、「ちゃんと赤ちゃんが育っているんだな」と辛いつわりでさえも幸せを感じていました。
――不妊治療で苦労していたことは、あいりさんや旦那さんのご家族も知っていたのでしょうか。
あいり:両家の両親共に話していました。振り返ると義母は私にプレッシャーをかけないようにしてくれていたんだなと思います。流産をしたときも「みなまで言わなくていいよ」という感じで接してくれて、「あいりちゃんの体が元気ならそれでいいからね」と私のことをいつも気遣ってくれました。
夫が長男なので、「1人は産まなきゃいけない」と焦りのようなものがあったのですが、お義母さんは「本当に子どものことは気にしなくていいから」とずっと言ってくれていました。その点に関しては私の親も同じで、私が不妊治療で苦労しているのを知っていたので「そんなに頑張らなくていい」と言ってくれて、「孫の顔が見たい」といったことは一度も言われたことがなかったです。そのおかげで、プレッシャーを感じず自分の気持ちだけで不妊治療を進めることができたと思います。
◆出血、切迫早産、不安だらけの妊娠期間
――産院はどうやって選びましたか?
あいり:不妊治療でお世話になった病院の先生に、「君の場合は何かが起こる可能性が高いから、大学病院にしか紹介状は書きたくない」と言われてしまいました。出産を経験した友人から「出産後に豪華な食事を出してくれる病院」の話を聞いていたので、「食事が美味しいところがいいな」とか、いろいろと考えていたのですが、すぐに夢を断たれましたね(笑)。
でも、安定期に入ってすぐ入院することになったり、出産後すぐに赤ちゃんをNICUに入れなければならなかったりしたので、今となっては大学病院で出産して本当に良かったと思っています。
――なぜ入院することになったのですか?
あいり:妊娠7か月くらいのときに結構な出血があって、びっくりして病院に行ったら「切迫早産なので入院してください」と言われました。入院は約10日間ほどでしたが、生まれて初めての入院だったので「入院生活ってこんなに大変なんだ……」と思いました。
絶対安静なので、歩けない、動けない、それに、仕方のないことだとわかってはいるのですが、ご飯も“ザ・病院食”という感じで、ものすごく質素で……。そして入院中は常にお腹の張りを止めるための点滴をしていたのですが、なぜか私の腕は1か所しかうまく点滴の針が入らなくて、いろんなところに刺した結果、最終的に手の甲から点滴を入れていました。それが痛くてつらかったです。
――不安なときは、旦那さんに相談したりしましたか?
あいり:普段から、私の想いは夫の前で話しているので、妊娠期間中もサンドバッグのように私のモヤモヤを黙って聞いてくれていました(笑)。お腹の張りがあって料理ができないときは、出前やコンビニご飯などで甘えさせてもらっていました。そのあたりは、夫はすごく理解があったと思います。
◆無痛分娩を選んだ理由
――出産は無痛分娩だったそうですが、選んだ理由はありますか?
あいり:痛みが怖かったからというのが一番の理由です。あと、年を取ってからの出産だったので、産後の体力が不安だったということもあります。もちろんリスクもあるので賛否両論があるのは知りつつも無痛分娩を選びました。
――実際に経験してどうでしたか?
あいり:いろいろな方が仰っているとおり、メリット、デメリットがあると思いました。その病院の方針や、お医者さんの腕によってもかなり違いがあるんだろうなと思います。
私が出産した大学病院は、ギリギリまで麻酔を入れずにまずは陣痛を起こさせて、陣痛の感覚が短くなって分娩台に上がるところで初めて麻酔の管を背中に入れるという方法でした。そのため、無痛にしてもらうまでが長かったです。
家で朝方4時ごろに少しだけ破水して病院に行くとすぐ入院。水と軽いパンだけ食べると、ほどなくして陣痛がきました。ズドーンとくる重みと痛み。看護師さんは「まだまだ!」と仰って、苦しみながら朝から夕方まで院内を歩き続けました。入院してから12時間がすぎた頃にやっと分娩台に移動。麻酔を入れた瞬間フッと陣痛を感じなくなりました。でも麻酔を入れたら陣痛が弱まってしまって、「このままだと出産が進まないから」と言われて、麻酔を止めたんです。
私の場合は、高齢出産ということもあって子宮口が固くなっていたらしく、なかなか開かなかったみたいです。破水した日の夜は「一回寝ましょう」と言われて、分娩室で一晩過ごしまたのですが麻酔が切れるとまた陣痛がやってきての繰り返しでこの一晩もかなり辛かったです。
――旦那さんは励ましたりしてくれましたか?
あいり:それが、コロナ禍だったので立ち会いどころか病院に入れなかったんです。「私の苦しんでいる顔を一生覚えておいて!」と言うところとか想像していたんですけどね(笑)。だからずっと一人きりでした。朝にパンを食べたきりずっと飲まず食わずだったのでお腹が空きすぎて吐き気もありましたし、背中に麻酔の管が入っているのでトイレにも行けず、2~3時間に1回尿を出すために尿道にカテーテルを入れるのもつらかったですね。
分娩台に上がって20時間ほど経ち、陣痛が強いものの子宮口がほぼ開かず「赤ちゃんの体力や感染症が心配なので、あと1時間で子宮口が開かなかったら帝王切開しましょう」と言われました。それから、先生がすごい力で子宮口をこじ開けてくれたんですが、それがものすっごく痛かったです。
◆無痛分娩で体力を温存するどころか……
――かなり大変なお産でしたね……。
あいり:そこからがまた地獄でした(笑)。麻酔を入れてくれたので陣痛や会陰切開の痛みはなかったのですが、いきむたびに目玉は飛び出そうだし、先生がお腹の上に乗って全体重をかけて押しているし、身体も呼吸もとても苦しかったです。それでもなかなか出てこなかったので最後は吸引分娩になったのですが、最初に分娩台に上がってから出産するまで、33時間かかりました。無痛分娩で体力を温存するどころか、すべての力を使い果たしました。
産まれて少ししてから、泣き声が聞こえてきて安堵で涙が溢れました。が、それも束の間で息子は黄疸と低血糖をおこしているとわかり、一瞬顔の横で息子を眺めて写真を撮っただけですぐにNICUに連れていかれました。残った私は出産での出血量が1.5リットルあり、そのまま分娩室で輸血しました。出産後の晩、真っ暗な中で心電図のモニターだけが光っていている様子を眺めながら「あれは幻だったんじゃないかな?」と赤ちゃんが生まれたことがまだ信じられないような思いがありました。
――いつ頃、赤ちゃんが産まれた実感が湧いてきましたか?
あいり:出産直後は赤ちゃんがNICUにいて、近くにいなかたので、仕事のことを考えていた気がします。出産までの100日間をYouTubeのショート動画で毎日投稿していたので、視聴者の皆さんに「産まれました」という報告を早くしなければとか考えていました。
産後も輸血は続きましたし、貧血状態のため絶対安静と言われていたので、移動は車椅子でした。看護師さんに連れられてNICUに会いに行き、赤ちゃんを抱っこしたときに「あぁ私はこの子を産んだんだな」という最初の実感がありました。とはいえ、まだ信じられない思いもあり、「私はこの子のお母さんなんだ」としっかり感じたのは、初めて母乳をあげたときだったと思います。
不妊治療でつらかったことなどはしょっちゅう走馬灯のように思いだしますし、今でも寝かしつけのときなど、息子に「産まれてきてくれてありがとう」と伝えています。これまでの経験から、無事に生まれてくることが当たり前ではないことを実感していたので、産まれてきてくれたことに常に感謝しています。
<取材・文/都田ミツコ>
【都田ミツコ】
ライター、編集者。1982年生まれ。編集プロダクション勤務を経てフリーランスに。主に子育て、教育、女性のキャリア、などをテーマに企業や専門家、著名人インタビューを行う。「日経xwoman」「女子SPA!」「東洋経済オンライン」などで執筆。
45歳で第一子を出産したあいりさんは、5年間の不妊治療のなかで2度の流産を経験するなど、出産を迎えるまでには多くの不安があったといいます。出産までの道のりや、無痛分娩を選択した理由などについて聞きました。
◆つらいとき、支えてくれた義母の言葉
――妊娠期間を振り返って、どんなことが印象に残っていますか?
あいり:これまでに2回流産を経験していたので、妊娠中はすごく不安でした。そのうち1回は赤ちゃんが亡くなってしまった週数的に手術が必要だったので、出産するまで「ちゃんと育つかな」と心配していました。
つわりも結構大変で、私は吐くのがどうしても怖かったので、吐き気を紛らわせるためにサイダーを飲んだりフリスクなどスーッとするようなものをずっと食べていました。さらに普段とは食べたいと思うものが違っていて、なぜかコンビニのサラダ巻きばかり食べていた時期がありました(笑)。でも、「ちゃんと赤ちゃんが育っているんだな」と辛いつわりでさえも幸せを感じていました。
――不妊治療で苦労していたことは、あいりさんや旦那さんのご家族も知っていたのでしょうか。
あいり:両家の両親共に話していました。振り返ると義母は私にプレッシャーをかけないようにしてくれていたんだなと思います。流産をしたときも「みなまで言わなくていいよ」という感じで接してくれて、「あいりちゃんの体が元気ならそれでいいからね」と私のことをいつも気遣ってくれました。
夫が長男なので、「1人は産まなきゃいけない」と焦りのようなものがあったのですが、お義母さんは「本当に子どものことは気にしなくていいから」とずっと言ってくれていました。その点に関しては私の親も同じで、私が不妊治療で苦労しているのを知っていたので「そんなに頑張らなくていい」と言ってくれて、「孫の顔が見たい」といったことは一度も言われたことがなかったです。そのおかげで、プレッシャーを感じず自分の気持ちだけで不妊治療を進めることができたと思います。
◆出血、切迫早産、不安だらけの妊娠期間
――産院はどうやって選びましたか?
あいり:不妊治療でお世話になった病院の先生に、「君の場合は何かが起こる可能性が高いから、大学病院にしか紹介状は書きたくない」と言われてしまいました。出産を経験した友人から「出産後に豪華な食事を出してくれる病院」の話を聞いていたので、「食事が美味しいところがいいな」とか、いろいろと考えていたのですが、すぐに夢を断たれましたね(笑)。
でも、安定期に入ってすぐ入院することになったり、出産後すぐに赤ちゃんをNICUに入れなければならなかったりしたので、今となっては大学病院で出産して本当に良かったと思っています。
――なぜ入院することになったのですか?
あいり:妊娠7か月くらいのときに結構な出血があって、びっくりして病院に行ったら「切迫早産なので入院してください」と言われました。入院は約10日間ほどでしたが、生まれて初めての入院だったので「入院生活ってこんなに大変なんだ……」と思いました。
絶対安静なので、歩けない、動けない、それに、仕方のないことだとわかってはいるのですが、ご飯も“ザ・病院食”という感じで、ものすごく質素で……。そして入院中は常にお腹の張りを止めるための点滴をしていたのですが、なぜか私の腕は1か所しかうまく点滴の針が入らなくて、いろんなところに刺した結果、最終的に手の甲から点滴を入れていました。それが痛くてつらかったです。
――不安なときは、旦那さんに相談したりしましたか?
あいり:普段から、私の想いは夫の前で話しているので、妊娠期間中もサンドバッグのように私のモヤモヤを黙って聞いてくれていました(笑)。お腹の張りがあって料理ができないときは、出前やコンビニご飯などで甘えさせてもらっていました。そのあたりは、夫はすごく理解があったと思います。
◆無痛分娩を選んだ理由
――出産は無痛分娩だったそうですが、選んだ理由はありますか?
あいり:痛みが怖かったからというのが一番の理由です。あと、年を取ってからの出産だったので、産後の体力が不安だったということもあります。もちろんリスクもあるので賛否両論があるのは知りつつも無痛分娩を選びました。
――実際に経験してどうでしたか?
あいり:いろいろな方が仰っているとおり、メリット、デメリットがあると思いました。その病院の方針や、お医者さんの腕によってもかなり違いがあるんだろうなと思います。
私が出産した大学病院は、ギリギリまで麻酔を入れずにまずは陣痛を起こさせて、陣痛の感覚が短くなって分娩台に上がるところで初めて麻酔の管を背中に入れるという方法でした。そのため、無痛にしてもらうまでが長かったです。
家で朝方4時ごろに少しだけ破水して病院に行くとすぐ入院。水と軽いパンだけ食べると、ほどなくして陣痛がきました。ズドーンとくる重みと痛み。看護師さんは「まだまだ!」と仰って、苦しみながら朝から夕方まで院内を歩き続けました。入院してから12時間がすぎた頃にやっと分娩台に移動。麻酔を入れた瞬間フッと陣痛を感じなくなりました。でも麻酔を入れたら陣痛が弱まってしまって、「このままだと出産が進まないから」と言われて、麻酔を止めたんです。
私の場合は、高齢出産ということもあって子宮口が固くなっていたらしく、なかなか開かなかったみたいです。破水した日の夜は「一回寝ましょう」と言われて、分娩室で一晩過ごしまたのですが麻酔が切れるとまた陣痛がやってきての繰り返しでこの一晩もかなり辛かったです。
――旦那さんは励ましたりしてくれましたか?
あいり:それが、コロナ禍だったので立ち会いどころか病院に入れなかったんです。「私の苦しんでいる顔を一生覚えておいて!」と言うところとか想像していたんですけどね(笑)。だからずっと一人きりでした。朝にパンを食べたきりずっと飲まず食わずだったのでお腹が空きすぎて吐き気もありましたし、背中に麻酔の管が入っているのでトイレにも行けず、2~3時間に1回尿を出すために尿道にカテーテルを入れるのもつらかったですね。
分娩台に上がって20時間ほど経ち、陣痛が強いものの子宮口がほぼ開かず「赤ちゃんの体力や感染症が心配なので、あと1時間で子宮口が開かなかったら帝王切開しましょう」と言われました。それから、先生がすごい力で子宮口をこじ開けてくれたんですが、それがものすっごく痛かったです。
◆無痛分娩で体力を温存するどころか……
――かなり大変なお産でしたね……。
あいり:そこからがまた地獄でした(笑)。麻酔を入れてくれたので陣痛や会陰切開の痛みはなかったのですが、いきむたびに目玉は飛び出そうだし、先生がお腹の上に乗って全体重をかけて押しているし、身体も呼吸もとても苦しかったです。それでもなかなか出てこなかったので最後は吸引分娩になったのですが、最初に分娩台に上がってから出産するまで、33時間かかりました。無痛分娩で体力を温存するどころか、すべての力を使い果たしました。
産まれて少ししてから、泣き声が聞こえてきて安堵で涙が溢れました。が、それも束の間で息子は黄疸と低血糖をおこしているとわかり、一瞬顔の横で息子を眺めて写真を撮っただけですぐにNICUに連れていかれました。残った私は出産での出血量が1.5リットルあり、そのまま分娩室で輸血しました。出産後の晩、真っ暗な中で心電図のモニターだけが光っていている様子を眺めながら「あれは幻だったんじゃないかな?」と赤ちゃんが生まれたことがまだ信じられないような思いがありました。
――いつ頃、赤ちゃんが産まれた実感が湧いてきましたか?
あいり:出産直後は赤ちゃんがNICUにいて、近くにいなかたので、仕事のことを考えていた気がします。出産までの100日間をYouTubeのショート動画で毎日投稿していたので、視聴者の皆さんに「産まれました」という報告を早くしなければとか考えていました。
産後も輸血は続きましたし、貧血状態のため絶対安静と言われていたので、移動は車椅子でした。看護師さんに連れられてNICUに会いに行き、赤ちゃんを抱っこしたときに「あぁ私はこの子を産んだんだな」という最初の実感がありました。とはいえ、まだ信じられない思いもあり、「私はこの子のお母さんなんだ」としっかり感じたのは、初めて母乳をあげたときだったと思います。
不妊治療でつらかったことなどはしょっちゅう走馬灯のように思いだしますし、今でも寝かしつけのときなど、息子に「産まれてきてくれてありがとう」と伝えています。これまでの経験から、無事に生まれてくることが当たり前ではないことを実感していたので、産まれてきてくれたことに常に感謝しています。
<取材・文/都田ミツコ>
【都田ミツコ】
ライター、編集者。1982年生まれ。編集プロダクション勤務を経てフリーランスに。主に子育て、教育、女性のキャリア、などをテーマに企業や専門家、著名人インタビューを行う。「日経xwoman」「女子SPA!」「東洋経済オンライン」などで執筆。