Infoseek 楽天

42歳で乳がん発覚。“自分の体がモノのように”感じてツラかったこと「油性ペンで…」

女子SPA! 2024年8月4日 8時45分

 2016年、42歳のクリスマスイブに突如乳がん宣告。(ステージⅡB)。晴天の霹靂だった「がん宣告」から約1年間、泣いたり笑ったり怒涛の日々を駆け抜けた、私のがん治療ドキュメンタリーを連載でお届けしています。

※治療方針や、医師や看護師の発言は筆者の病状等を踏まえてのものであり、すべての患者さんに当てはまるものではありません。また、薬の副作用には個人差があります。

◆放射線治療で「自分の身体がモノになったように感じた…」

 年末にがんが見つかり、年明けから病院探し、手術、抗がん剤治療を受け終わったときにはすでに秋になっていました。

 意気込んで始めた治療ですが、途中に夫婦のいざこざや息子のことなどの悩みが生じ、どんどん精神状態が悪化していったわたし。

 抗がん剤は週に一度、横浜から都内の病院まで1時間半ほどかけて通っていましたが、放射線治療は1か月間、平日毎日照射に通わなければならないため近所のがん専門病院で治療を受けることにしました。そちらの病院は電車で5分、最寄駅からは徒歩10分程度の場所。

 照射開始前には、照射部分をマジックペンでがっつり描かれ、1か月間は消さないように注意されます。何か身体に書く用のペンを使うのかと思ったら、ごく普通の油性ペンで思いっきり……。

 照射するエリアの中心にはの十字マークもしっかり書かれ、これが消えると中心が分からなくなるので消さないようにねと念を押されました。これは1か月、身体をごしごし洗えないなと悟るわたし。秋だったので汗をかかない時期で助かりました。

 毎日通うのは大変ですが、照射時間はものの5分。毎朝同じ時間に通って、照射して、帰るというルーティーンです。

 放射線治療は、低量の放射線を何度も当てるので、回数を重ねるごと日焼けのような赤みが出てきて、徐々に黒くなっていきます。お風呂に入るたびに自分の身体がモノになったように感じ、気分が沈みました。

◆私生活では小4息子の進路に悩み

 放射線治療を受けている期間も、相変わらず私生活の悩みは消えず、小4の息子の進路についてずっと考えていました。

 口を開けば「塾どうしよう」と言い、息子には「もう塾の話をしないで!」と怒られ、夫にも相談に乗ってもらえず、誰にも話す人がいなくてひとりふさぎ込んでいました。

 いてもたってもいられず、いろんな塾に問い合わせ、嫌がる息子を体験に連れて行きますが、どこもピンときません。なぜか中学受験は「家で親が勉強を手伝う」が前提。勉強アレルギーの息子が中学受験なんて絶望的なのか、でもそれなら勉強しないまま中学生を過ごした後の高校受験はもっと絶望的だと悲観的になり、焦りばかりが募ります。

 この時期はメンタルが不調で誰にも会いたくなくなり、仕事もせずに毎朝放射線治療を受けに病院に行くだけの生活だったので、余計にあれこれ考えてしまったのだと思います。かといって気晴らしに何かしたいという気力も出ず、久しぶりの友人からのLINEにも返信できませんでした。悩みをぶちまけることも、平常心を装って返信する元気もありませんでした。

 人って精神的に苦しくなると、楽しいことすらしたくなくなるのだなと痛感しました。夫や母もときどき「少し気晴らしに出かけてきたら?」などと声をかけてくれるのですが、頭の中が悩みと不安でいっぱいで、そんな楽しいことが入る余地もないのです。

 もともとあちこち珍しいものを見て回ることや美味しいものを食べるのが好きなわたしが、買い物やご飯を味わう余裕もなくなったのは後にも先にもこの時だけです。この欲深いわたしがこんな状態になったのは自分でもショックでした。

◆ある塾長の言葉に、息子が「やる!」

 そんなノイローゼ状態のまま息子を塾の体験に連れまわしていたわたし。あのときのことを思い出すと、本当に申し訳なかったなと思います。

 あちこち回りつくしてもうここが最後だと思っていたときに「ここだ」と思える塾に出会いました。電話で問い合せると塾長が電話口に登場。いくつかわが家の現状を質問されました。

 すると「うちでお預かりすればお母さんは何もする必要はありません。大量の宿題も出しませんし全部塾で完結します。精神年齢に応じて小学生の伸びしろは変わりますので、良い学校に入れるという保証はできませんが、無理を強いて子どもを壊すこともしません」と言われてビックリ。他とまったく違いました。

 わたしは塾長の話を食い入るように聞き、「塾」とか「勉強」という言葉にウンザリしている息子を引きずってなんとか塾長との面談に連れて行きました。「もう塾なんて嫌だ!」という息子に塾長が声を掛けました。「君さぁ、トイレって一人で入るよね? お母さんにお尻拭いてもらう?」。息子はキョトンとして「さすがにそれはない」と一言。

 塾長は息子の返事に「でしょ? 勉強も同じで自分でやるものなんだよ。お母さんに言われてやるもんじゃないんだよ。うちの塾はみんな楽しいって来るけど、君が来たくないなら来なくていいよ。でももし自分でやってみたいと思うんだったら全力で手を貸すよ。俺は受験のプロだから。どうする? 最後は自分で決めろよ」とオトコマエな言葉を投げかけました。

 すると息子は「うーん……ちょっとやってみたい気がする」と小声で返したのです。塾長は「やってみたい、じゃなくてやる、って言わないとダメ!」とハッパをかけます。すると息子は「じゃあ……やる!」と宣言。この一言で入塾が決まりました。

◆塾長にがん乳がん治療中であると伝えると

 後から知りましたが、この塾長は人心掌握術にたけており、子どもにやる気を出させるなんて朝飯前。塾長とのやりとりも振り返ってみれば、少し突き放してプライドをくすぐるようなことを言われれば、家では甘えん坊の息子でも「やる」と言ってしまうよなぁと納得。子どもの視線に合わせて話すことができるんだなと感心しました。

 塾長はわたしに「息子さんは精神的に幼いです。精神年齢が低いと、時間感覚がなくて先の見通しが立たない。逆に精神年齢の高い子は先のことを予測して今やるべきことがわかるので、来年の受験のために勉強しようと思えるんです。でもそれは息子さんには無理なことで、小学生ならばらつきがあって仕方がないこと。でも息子さんのような幼い子なんてたくさんいますし見慣れています。ご安心ください。すべて面倒見ます」と言い切ってくれました。

 ボロボロになっていたわたしはこの言葉に思わず涙ぐんでしまいました。実は息子は小さいころからほかの子と違う部分も多かったのです。

 幼稚園の見学では小さい子の集団を怖がり、場所見知りもひどくて知らない場所には頑として行きたがらない。納得いかないことをやらされることも苦手。だからといって発達相談に行っても問題なし。わたしが見ていると同年代の子どもたちと明らかに何かが違うのですが、なんとか周りに合わせられてしまうため、はた目には「ただのおとなしい子」として埋もれてしまっていました。

 塾長の「同じような子をたくさん見ています」という発言は、小さいころから感じていた息子への不安まで解消してくれるような一言でした。「うちの子だけじゃないのだ」ということが分かっただけで、なんだか安心できたのです。

 塾長には、息子についての話に加え、わたしが乳がん治療をしていることも伝えました。自分の治療に必死で息子の勉強について考えることが遅れてしまい焦っていること、抗がん剤の影響かどうかははっきりしないけれど、とても悩んで混乱してしまっていたこと。きちんと話を聞いてくださり、事情をわかった上で「責任をもって預かります。お任せください」と言い切ってくれた塾長には本当に今でも感謝しています。

 息子が小さいころから積もりに積もっていた育児の悩みと、今現在の方向性が決まり、がん治療とともに、プライベートまで大混乱だった状況が、ひとつずつほぐれていくのを感じました。これが息を吹き返す大きなきっかけだったかもしれません。

◆乳がん発見から1年、ついに治療が終了

 年末に別の病院で放射線治療を終えた私は、年明けに元の病院に戻り、主治医の先生の診察を受けました。乳がん発見からまる1年が経っていました。主治医の先生は優しく「1年間よく頑張ったね。いろいろあって本当に大変だったと思うけれど、できることはすべてやったから、あとはあまり細かいことを考えずに過ごしていいと思いますよ」と言ってくれました。

 腫瘍を取り除き、転移したリンパのみならず、乳房周辺のリンパ節は転移の可能性があるためごっそり取り除きました。さらにそこに全身に散らばっているかもしれないがんの種を根絶やしにすべく抗がん剤を投薬し、仕上げに外から手術後の患部に放射線を当てて焼野原に。できることはすべてやった。本当にそうです。

 乳がんのタイプによっては5~10年服用するホルモン治療も私の乳がんタイプでは効かないとされているため、これで本当に治療は終了です。

 先生に言われるまで気づきませんでしたが、この1年間目先の治療をこなすべく、そのたびに不安になりながら、そしてプライベートでもぐちゃぐちゃしながら、必死で治療の日々を駆け抜けてきたのだなと実感しました。

◆やる気満々でスタートしたがん治療だったけど…

 治療をすべて終えた私は、この記録を自分で持っておきたいと「カルテ開示」をお願いすることにしました。今後そこまで詳細情報が必要に自分がどのように診断され、どんな手術をし、切り取った私のおっぱいはどんな診断をされたのか知っておきたいと思ったのです。

 開示されたカルテには、なんとわたしの切り取られたおっぱいの写真も載っていました。自分の身体から切り離されたおっぱいはなんとなく不気味でしたが、自分の胸についていたときの面影もあり、なんともいえない気持ちになりました。

 手術で取り除いた組織は、今後の研究のために使用しても構わないとサインをしたので、わたしのおっぱい細胞は、わたしの身体を離れて後世の研究にも活かされているのかもしれないと想像を膨らませました。

 乳がんが見つかった当初は「楽しんで治療を乗り切ってみせる!」などとやる気満々で開始した治療ですが、私にとってこの1年はなかなかに長く感じました。手術で体力が落ちたり、長丁場の抗がん剤などで気力も落ちていたのでしょう。治療中にあったさまざまなことも含め、当初に考えていたほどの元気さで完走することはできませんでした。

 それでもなんとか治療を終えることができたのは、主治医の先生の励まし、必要なメンタルケアにつないでくださった病院スタッフの方々、そして荒れるわたしをなんとか支えようとしてくれた家族、病院で出会い励ましあったがん友など、さまざまな人の協力があったからだと思います。

<文/塩辛いか乃 監修/沢岻美奈子(沢岻美奈子女性医療クリニック院長)>

【監修者:沢岻美奈子】

日本産科婦人科学会認定産婦人科専門医。神戸にある沢岻美奈子女性医療クリニックの院長。子宮がん検診や乳がん検診、骨粗鬆症検診まで女性特有の病気の早期発見のための検診を数多く行なっている。更年期を中心にホルモンや漢方治療も行い女性のヘルスリテラシー向上のために実際の診察室の中での患者さんとのやりとりや女性医療の正しい内容をインスタグラムで毎週配信している

【塩辛いか乃】
世の中の当たり前を疑うアラフィフ主婦ライター。同志社大学文学部英文学科卒。中3繊細マイペース息子と20歳年上の旦那と3人暮らし。乳がんサバイバー(乳房全摘手術・抗がん剤)。趣味はフラメンコ。ラクするための情熱は誰にも負けない効率モンスター。晩酌のお供はイオンのバーリアル。不眠症。note/Twitter:@yukaikayukako

この記事の関連ニュース