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42歳で乳がん宣告された私。抗がん剤で抜けた髪が生えてきてギョッ!鏡を見るとそこにいたのは

女子SPA! 2024年8月13日 8時44分

 2016年、42歳のクリスマスイブに突如乳がん宣告。(ステージⅡB)。晴天の霹靂だった「がん宣告」から約1年間、泣いたり笑ったり怒涛の日々を駆け抜けた、私のがん治療ドキュメンタリーを連載でお届けしています。

※治療方針や、医師や看護師の発言は筆者の病状等を踏まえてのものであり、すべての患者さんに当てはまるものではありません。また、薬の副作用には個人差があります。

◆治療中は「おじいさん」のような外見に

 ある日突然の乳がん発覚から1年。ついにすべての治療を終えました。手術までの病院探し、治療法の模索、手術、抗がん剤治療、放射線治療。

 手術後に診断された最終的なステージはⅡB。リンパ転移があったため、抗がん剤と放射線。トリプルネガティブタイプの乳がんはホルモン治療が効かないため、今回の乳がんに対する治療はこれで全てです。

 治療中には、私生活でいろいろなトラブルがあって精神的にもやられ、食欲もうせて激やせし、乳がん発見時の体重から10キロ近く落ちていました。

 当時のわたしは、はた目から見てもよほどひどい状態だったのだろうと思います。覇気もなく、何をするときも目はうつろ。ある日、スーパーで長い間会っていなかったママ友とばったり。声をかけられましたが、わたしがあまりに不健康そうだったのでしょう、話もそこそこに「じゃあね」と足早に去っていきました。

 頬もこけて、お化粧をする気も起こらない。さらに抗がん剤で髪はない。眉毛もまつ毛も薄くなり、顔はのっぺらぼうみたい。顔色も悪く、家にいるわたしはおばさんというよりは「おじいさん」でした。

◆治療を終えて生えてきた髪にびっくり!

 ですが抗がん剤治療を終えて少し経つと、まったくなかった髪の毛が少し生えてきました。坊主頭にしたことはないですが、短い髪って伸びるのがすごく早く感じます。あっという間に5分刈りのようになったわたしの髪型。以前は白髪染めをしていたので自分の白髪量を知りませんでしたが、生えてきたら白髪ばかりで、それはもうひどいありさまでした……。

 ある日、洗面所の鏡をのぞき込んでギョッとしました。そこにいたのは老いた父にそっくりのわたし。痩せこけて、白髪の五分刈り。自分の姿から「女性らしさ」みたいなものがまったく感じられませんでした。

 そんな姿にゾゾっと背筋が寒くなり「このままじゃいかん」とその足でドラッグストアに走り、白髪染めをゲット。長い髪だと自分で染めるのは手間がかかりますが、五分刈りなのでざっと塗れば仕上がる。今すぐに染めようとお風呂を沸かし、洗面所で白髪染めを塗りたくりました。

 ばっちり髪を染め上げたお風呂上がりのわたしは、さっきの「老いた父」状態よりもずいぶんいい感じに見えました。お風呂上がりで少し顔色が良くなったせいもあるかもしれません。白髪がなくなった自分を鏡で見て「あっ、生き返った」と思いました。

 自分でも予想しないほどに「ふわっ」といい気分が心の底から持ち上がってくるのを感じたのです。毎日鏡で不健康そうな自分を見るたび「もうどうでもいいや」とおしゃれをする気さえ失せていたわたしですが、この日を機に、もう少しおしゃれしたいなと思うようになりました。

◆偶然見つけたオレンジ色のスカート

 もともと洋服好きでしたが思い返せば、メンタル不調になってからは、服を選ぶ気力もなくなっていました。外出の際には、何年か前に買ったシワにならなさそうな服を毎回着ていました。靴も毎回同じ黒いスニーカー。けれどこの白髪染めの一件以来、なんとなく素敵な服が着たいと思うようになりました。

 ある日、通りすがりのお店で、ハッとするようなオレンジ色のスカートがウインドウにディスプレイされているのを見つけて、吸い寄せられるように店内へ。「思い切り明るい色の服が着たい」と思い、そのオレンジのスカートを試着。スカートに合わせた明るい柄のストールも巻き、鏡に映った自分を見てまた「うわぁ、いいかも」と気持ちが明るくなり、そのスカートを購入しました。

 少しずつ気持ちが戻ってきたのは、息子の塾が決まったことも大きな理由だと思います。今まで悩んでばかりで何事もうまくいかず、闇の中でもがいていたけれど、目先のやるべきことが決まったことで、悩むだけでなく具体的な行動が伴うようになったことが良かったのかもしれません。

 やっと息子の塾が決まったので、少し遠い塾までの送迎をするために、ペーパードライバーのわたしは運転の練習を始めました。ものすごく怖がりなので、初心者マークを貼って、ひとりで何度も塾までの道を往復して猛練習。週に3回、息子の塾送迎をするルーティンが始まり、塾が終わるのを待っている最中に、車を停めたショッピングモール内で買い物をして時間をつぶしたり、なんというか「普通の人」っぽいこともできるようになってきました。

◆お惣菜がおいしそうに見えるように

 モールで時間をつぶしていると、食品コーナーのお惣菜もおいしそうに見えてくるようになった自分にも気づきました。「わぁ、おいしそう。食べたいなぁ」と自然に感情が沸き上がってくる自分が不思議でした。だって数か月前まではご飯を食べることさえ面倒で、仕方なくキッチンに立って手づかみで白米をむさぼっていたのですから。

 そうやって徐々に自分の人間らしい「欲」みたいなものが復活してくるのを感じました。わたしは本来あちこちに興味があり、やりたいことも、欲しいものもたくさんある。やりたいことは必ずやる、欲しいものも買っちゃうという性格。悪く言えば浪費家の面があり、我慢ができない自分を責めることもありました。特に夫が倹約家だったので、お金の管理ができないことにコンプレックスや罪悪感を抱いたこともあります。

 けれど乳がんになり治療の途中でメンタルをやられ、どん底の無気力を経験したことで、「美味しいものが食べたい」「旅行に行きたい」「おしゃれがしたい」などの欲が出るのは、心身ともに元気な証拠だと身をもってわかりました。

 それまでの時期は本当に息をするのもつらかったけれど、それを経て、「ご飯をおいしく食べる」といういつもの行動が実は「かけがえのない生」であると気づけたわたしは、もしかしたら幸せ者なのかもしれません。

◆「人って死ぬんだ」と本当の意味で実感した

 そして、乳がんの治療も「生きるため」に取り組んだこと。乳がんを患ったときは確実に「死」を身近に感じました。みんな寿命が来たら確実に死ぬのに、それでも自分が死ぬことを実感するってなかなかできないと思います。けれど乳がんと診断されたとき「ああ、このまま放っておいたら死ぬんだ、わたし。人って本当に死ぬんだな」と思ったのです。

 リアルに死を感じたことで、生きていることの貴重さがわかりました。治療中にメンタルをやられ「生きていることがつらい」と闇をさまよっていた期間は、「せっかく治療をして生かしてもらっているのに」と、自分の中の矛盾を責め、罪悪感もありました。

 だからこそ、動けるようになってきたときに「これからの人生は思い切り楽しんで生きよう」と誓いました。美味しいものを思い切り味わって、やりたいことを思い切りやろう。自分が思い描いていることを叶えるために思い切り頑張って、どこまで叶うかやってみよう、とどんどん意欲的になっていきました。

 やっとごはんを美味しく感じられるようになったのだから、家でも美味しいごはんを食べようと、あれこれレシピを試して料理をしはじめました。闘病で減った10キロを取り戻すどころか上げ止まらず。元の体重を通り過ぎてグングン増加してきました。定期検査で先生に「太りすぎはがんのリスクだから気を付けて!」と言われる始末。

 けれど、先生もわたしの不調は見ていたので「先生、ご飯がおいしくなったんです!」と伝えると「それは本当によかったね」と喜んでくれました。

◆美容室へ行き、ウィッグを卒業。お話会を自主開催

 少し元気になり、髪も伸びてウィッグからも卒業しました。伸びた髪を美容室でカットし、人生初のベリーショートに。久しぶりにウィッグなしで外に出て、頭も気分もスッキリ。毎日のウィッグで慣れてはいましたが、やはり締め付けや暑苦しさから解放されると全然気分が違います。わたしの場合はもともとの毛量が多く太かったのでぐんぐん髪が生えてきて、抗がん剤終了後、半年くらいでウィッグを卒業できました。

 髪の毛だけでなく、眉毛やまつ毛も知らず知らぬに抜け落ちていたのが、少しずつ戻ってきました。腕や足の毛も抜けていたのでなんだかヌルヌルしていたのですが、気づけば元通りの体毛も生え、顔の血色も良くなってきました。

 このころ、自分が経験したあれこれを新鮮なうちに誰かに伝えようと思い「乳がんお話会」を自主開催しました。お話会に来てくれた方は健康に意識の高い方や、女性の生徒さんが多い教室主宰の方。知り合いや生徒さんにも乳がんの話を伝えてくださるとのことで、わたしの経験が少しでも誰かの役に立てばと思っていたので、わたしの話を聞きに集まってくれたことは大きな喜びでもありました。

 この連載に書いたような、病気に直接関係ないプライベートなことには触れませんでしたが、乳がんを見つけた経緯、病院を選んだ基準、乳がんの種類や手術の方法、術後の肌着事情。また、抗がん剤の副作用や抗がん剤を打ちながらの生活、ウィッグについてなども伝えました。

 また、病院で知り合った方の中では健康診断で見つかった方も多かったので、がん検診は確実に受けたほうが良いともお伝えしました。乳がんは特に「比較的見つけやすいがん」だと思います。見つかりにくい内臓のがんなどは、早く見つけたくても見つからないものが多い中、乳がんは触診やエコー、マンモグラフィなどで見つけやすい。そして早期発見であればあるほど、治療も軽く済む傾向にあると思います。

 わたしは脇のリンパに転移が見つかったので抗がん剤も勧められましたが、もっと軽ければ部分切除で抗がん剤なし、というパターンの治療の方もいます。もちろん個人差やがんのタイプによっても違いますが、やはり早期発見は大事だなと感じました。

 わたしがあまり病気を隠さずオープンだったので、相談を受けたりもしました。「友人にがんが見つかったのだけれど、どう接したらいいか」「なにがしてあげられるか」などをがん経験者の視点から聞きたいという方はけっこう多く、その方たちには私が持つ情報や体験談を余すところなくお伝えしました。

◆乳がんの体験をブログでも発信するように

 自分の病気をあまり大っぴらにしたくない人は多いと思います。マイナスな情報で、かつプライベートな話なので当然です。ですがわたしは、自分が病気になった時に、いろんな人の体験談が聞きたかった。だからこうして包み隠さずわたしの体験を伝えようと思ったのです。

 お話会が好評だったこともあり、もっと多くの人に伝えたいと思い、当時書いていたブログにも治療のことを書いて、SNSでも拡散しました。治療が終わり、徐々に普段の生活を取り戻し始めたとき「わたしがするべきことはこれだ」という想いがあったのです。

 抗がん剤を打ちながらフラメンコの発表会に出たことを記事にすると、ある日、1通のメールが届きました。その方は同じく乳がんを患い、抗がん剤治療をやることになった際にわたしのブログを見つけてくれたのです。そして私の記事を読んで、抗がん剤治療をしながら、習っていたフラメンコを再開しようか迷っている、という話でした。

 もちろん私は全力で応援すると返信。ウィッグのことや、フラメンコに出たときの経験などあれこれお伝えしました。その後、彼女は抗がん剤治療の真っ最中にフラメンコライブに出演。わたしも応援に行き、対面してあいさつすることができました。

 ターバンを巻いて踊る彼女はとても魅力的でした。「乳がん フラメンコ」で検索して出てくる記事なんてそうそうないので、マニアックな共通点を持つ面白いご縁でつながることができました。

 こういった経験を通じて、わたし自身も自分に起こったことについて頭の整理をすることができました。そして苦しかった時期を抜けて少しずつ日常を取り戻す中で、あの激動の日々を冷静に振り返ることができるようになってきていました。

<文/塩辛いか乃 監修/沢岻美奈子(沢岻美奈子女性医療クリニック院長)>

【監修者:沢岻美奈子】

日本産科婦人科学会認定産婦人科専門医。神戸にある沢岻美奈子女性医療クリニックの院長。子宮がん検診や乳がん検診、骨粗鬆症検診まで女性特有の病気の早期発見のための検診を数多く行なっている。更年期を中心にホルモンや漢方治療も行い女性のヘルスリテラシー向上のために実際の診察室の中での患者さんとのやりとりや女性医療の正しい内容をインスタグラムで毎週配信している

【塩辛いか乃】
世の中の当たり前を疑うアラフィフ主婦ライター。同志社大学文学部英文学科卒。中3繊細マイペース息子と20歳年上の旦那と3人暮らし。乳がんサバイバー(乳房全摘手術・抗がん剤)。趣味はフラメンコ。ラクするための情熱は誰にも負けない効率モンスター。晩酌のお供はイオンのバーリアル。不眠症。note/Twitter:@yukaikayukako

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