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稲葉貴子、太陽とシスコムーンは「最後のチャンス」だった。誹謗中傷に悩んだ過去も

女子SPA! 2024年8月14日 15時46分

 オーディション番組『ASAYAN』(テレビ東京系)で合格し、1999年につんく♂プロデュースでデビューを果たした「太陽とシスコムーン」。

 民謡歌手・小湊美和、体操選手として1988年のソウル五輪に出場した経験を持つ信田美帆、中国で歌手として活躍していたRuRu、そしてアイドルグループ・大阪パフォーマンスドール(以下OPD)のメンバーだった稲葉貴子。異色の経歴を持つ4人によるグループで、一年半という短い活動期間ながら、今でも伝説的に語り継がれています。

 そんな太陽とシスコムーン(以下、太シス)は今年でデビュー25周年をむかえ、芸能界を引退したRuRuを除く3人で全国ツアーを開催。4月にはteam445とコラボした「ディスコ・クレオパトラ feat. 稲葉貴子・小湊美和・信田美帆 a.k.a. CISCO3」をリリース。そして6月には過去楽曲がサブスクリプションサービスで配信され、ネット上はお祭り騒ぎとなっていました。

「女子SPA!」では、稲葉貴子さん(50歳)にインタビュー。太シス全盛期の思い出や知られざる会社員時代の話、さらに現在の活動について聞かせてもらいました。

◆「ASAYAN」は最後のチャンス。引退も考えていた

――サブスクリプションサービスでの配信解禁が話題になりました。反響はどうですか?

稲葉貴子さん(以下、稲葉)「SNSなどでこわごわ見ていました。でもほとんどの方が喜んでくれて素直に嬉しく思いましたね。昔の熱を取り戻してくれた人もたくさんいたようです。

最近だと、ハロプロの後輩たちが曲をカバーをしてくれているせいか、私たちを知らない世代の人も見に来てくれるようになったんですよ。20代の子に『可愛い』って言われたりするのは、かなり新鮮です(笑)」

――熱狂的なファンが多かったですよね。稲葉さんは「太シス」以前にはOPDとして活動しており、メンバーの中でも特にキャリアのあるアーティストだったと記憶しています。どういった経緯でオーディション参加を決めたのでしょうか?

稲葉「あの頃は大阪で活動していたけれど、そんなにお仕事もなかった時期だったんです。アルバイトももちろんしていましたし、実は芸能活動を辞めようかとすら思っていました。

そのタイミングでASAYANの企画を知って、これが最後のチャンスかな、と。これでダメだったら引退の道を選ぼうと考えていたんです」

――いち芸能人として、それなりに切羽詰まった状態ではあったのでしょうか。

稲葉「人生そのものが終わってしまうわけではないので(笑)、崖っぷちとまでは思っていませんでした。芸能の世界ではないところで、普通に暮らしていくだけの話です。

この世界って自分の頑張りも必要だけど、それだけではどうしようもないことってあるんです。一つのお仕事をいただいたら、またそのご縁で次のお話が……の繰り返し。オーディションがダメだったらそういうことだし、合格したらまだ続けていいよってことだと思っていました」

◆「可愛いアイドル」の枠にハマれず、ひどい批判も

――オーディションに受かり、太シスとして新たに活動を開始。ASAYANでも大々的に取り上げられていた全盛期はどのような心境だったのでしょう。

稲葉「なんかもう……記憶がないところがけっこうあるんですよね。毎日目の前にあることを一生懸命やるしかなかったから。OPDでも歌やダンス、ライブもやっていましたが、太シスの活動はそれだけではなく、初めて経験することも多かったんです。ASAYANは台本がなくて、当日その場で内容を知らされますし(笑)。

それに今では考えられないほどの目まぐるしいスケジューリングでした。仕事が終わった後のメンバーとの挨拶も『また明日!』ではなく『また後で!』くらいの感覚だったくらい」

――寝る時間もないレベルだったのですね。

稲葉「そこはやっていて少し辛かった部分かもしれません。でも、遊ぶ時間が欲しいとかはなかったですよ。活動自体は楽しいし、好きなことができている実感がありました。私は特にライブが一番好きでしたね。お客さんの直接の反応が返ってくることがとても楽しかったし、これは今でも変わっていません。

逆にテレビの収録のお仕事は苦手でした。写真撮影も同様ですが、私はカメラ越しの見えない誰かに向けて笑ったり、表情を作ったりすることは得意ではなかったみたいです」

――他にも今だから言えるつらかったことはありますか?

稲葉「楽曲も見せ方も“可愛らしいアイドル”とは異なっていたためか、好評価をいただく反面、ひどい言葉で批判されることもすごくありました。自分たちは“アイドル”という意識じゃなかったけれど、どうしてもその枠にはめられてしまって。当時は私たちのようなグループを表現する言葉が一般的ではなかったように思います」

◆「私は何も持っていない」と悩んだことも

――パフォーマングループの走りかもしれませんね。そのカッコよさを体現できたのはメンバー4人の個性があったからこそでしょうか。

稲葉「そうですね。一方でメンバーが4人いる中、当時は比べられることの辛さもありました。私以外の他の3人が民謡歌手、オリンピック選手、外国籍と異色の肩書きや個性を持っている。その中でいうと経験はあるものの、私は何も持っていないのではないかと感じていたんです」

――でも、稲葉さんはまとめ役というかリーダー的存在だったじゃないですか?

稲葉「それ! 稲葉は太シスのリーダーってよく言われるんですけど、別にそういうわけじゃないんです!」

――えっ、そうだったのですか?

稲葉「太シスはリーダー不在のグループなんです。役割分担みたいなものはありましたけどね。私からすれば逆にどうしてそう思われたんだろう?って感じです(笑)」

◆解散後は司会に振り付け、裏方として邁進

――稲葉さんは太シスを解散した後も、ハロー!プロジェクトで様々な活動をされていましたよね。

稲葉「振り付けをやったり、レコーディングのコーラスをやったり、コンサートの司会をしたり舞台でお芝居をしたり……色々なことをやらせてもらいました。

特に司会はかなり鍛えられました。もともとあまりトークが得意な方ではなかったんです。ただ、経験を積む中でどんどんスキルアップしていくのが自分でもわかりました。ずっとグループで活動してきたせいか、一人でやっていくことに不安はありましたが、その苦手意識はもう薄れたと思います」

――当時のハロプロファンたちにとっても、稲葉さんといえばコンサートに欠かせない名司会という印象が強かったのでは。

稲葉「本音をいうと10歳以上も若い可愛いアイドルとのステージなんて大丈夫かな? と最初は不安があったんです。でも、松浦亜弥ちゃんや後藤真希ちゃんのコンサートのゲストに出させてもらった時に、『私なんてそんなそんな……』なんてやっている方がカッコ悪いなと気付きました。

どうせ出るなら年齢やキャリアなんか気にせず、その場に来ていただいたお客さんに楽しんでもらえたらそれでいいんじゃないかって。

私を必要ないと思う人もいたかもしれませんが、そこにフォーカスするのではなく、自分の力を思いきり出しきると決めたんです。そうすることで、少しずつファンの方々が好感を持ってくれるようになったのだと思います」

◆一般会社に就職。社会人マナーがわからず苦労も

――ハロプロ卒業後は、事務所の関連会社に一般会社員として就職されたそうですね。

稲葉「これは会社からの提案で引き受けることにしました。仕事の内容は主にファンクラブのイベント制作です。こういう経験をしてみるのもいいかもしれないし、とりあえず一旦やってみようくらいの感覚でしたね。やったからといって、稲葉貴子が終わるわけじゃないんだし」

――就職=引退というわけではなかったのですね。

稲葉「引退という意識はなかったです。表に出ることも、自分がやろうと思えばできるとわかっていたので。

でも、これまでずっと表に出る仕事しかしてこなかったから、社会人マナーやパソコンの使い方、メ―ルの送り方も何もわからない状態でした。パソコンも最初は指一本でキーボードを押すところから始めましたもん。『!』ってどうやって出すの?ってレベル(笑)」

◆社会経験のおかげで裏方のノウハウが身についた

――まさにイチから始めた会社員生活。

稲葉「結局、そこで8年くらい働いていました。この経験、めちゃめちゃ活きてますよ。一つのイベントを作りあげる仕事でしたからね。

2014年にはOPDの元メンバーとライブをやろうという話になり、そのユニット『ピリカラ』も10年続いているのですが、実現したきっかけはやっぱり自分が身に着けたノウハウです」

――ライブ会場をおさえたり、宣伝したりも自らできるわけですもんね。

稲葉「その一方で、これまで自分たちのためにスタッフがやってきてくれたことが本当の意味でわかったように思います。表に出る人、裏で支える人、それぞれの役割なので誰が凄いという話ではありませんが、それぞれが全うすることで大きなものが作りあげられる。

なんとなくでわかっていたことですけど、会社員を経験したことで心の底から感じられるようになりました」

◆20代とは違う、今の私たちのパフォーマンスを

――デビュー25周年を迎え、「太陽とシスコムーン」が再結成に至った経緯を教えてもらえますか?

稲葉「再結成というわけではないんですよね。実は節目の年ごとに集まっているんです。

最初のきっかけはデビュー10年目の時でした。その前年にOPDのデビュー15周年ライブをやったのですが、そのタイミングで小湊から『うちらも何かできるんじゃない?』と連絡をくれたんです」

――それまでも太シスメンバーで集まることはあったのですか?

稲葉「いえ、ほとんど会っていませんでした。でも、みんなの中に『できるのかな?やれるならやりたいな』って共通の気持ちがあったのだと思います。

そこから節目節目でイベントをやるという流れになってきたんですよ。15周年の時はRuRuも来日して解散以来の4人集結が実現しました。20周年の時はRuRu以外の3人でバンド形式でライブをしています」

――そして今年は5月から全国ツアーを開催。実にパワフルに活動していますよね。

稲葉「私たちも年を重ねて、いつまで活動できるのかわからなくなってきました。究極のことを言うと、明日自分がどうなるかって話になるんですよ。20代の時とはぜんぜん違う。でも、今の私たちなりのパフォーマンスがやれるなら、続けていきたい。今やれることをやりたいという気持ちです」

<取材・文/もちづき千代子 撮影/山川修一>

【もちづき千代子】
フリーライター。日大芸術学部放送学科卒業後、映像エディター・メーカー広報・WEBサイト編集長を経て、2015年よりフリーライターとして活動を開始。インコと白子と酎ハイをこよなく愛している。Twitter:@kyan__tama

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