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あやまん監督「全盛期は泣いてばかりいた」大人の事情で10kg減…それでも“燃え尽き”から復活できたワケ

女子SPA! 2024年8月19日 15時46分

 アラサー、アラフォー世代にとっては平成の遺産と言っても過言ではない“あやまんJAPAN”。「ぽいぽいぽぴー」というフレーズで一世を風靡した下ネタ宴会芸の女性チームという認識の方も多いかもしれませんが、2014年に「あやまんJAPAN株式会社」として法人化し、今年で10周年を迎えていたようです。

 会社の代表でチームの監督であるあやまん監督に、全盛期の心境や現在に至るまでの転機、「コンプラ」への意識などを伺いました。

◆初のテレビ出演は不満だらけだった

――10周年おめでとうございます! いま改めて、あやまんJAPANの成り立ちから教えてください。

あやまん監督(以下、監督):幼い頃から人前に出ることへの憧れはあって、そんな中で見つけた仕事がイベントコンパニオン(以下、イベコン)でした。イベコン時代の先輩に誘われた飲み会にいたのが、Jリーグ選手でした。その後、いろんなチームと飲み会をするうちに人脈も広がり、やがて女性メンバーが固まっていき、私主導で飲み会を繰り広げるようになりました。

――その後、テレビに出るようになったきっかけは?

監督:当時、氣志團の綾小路翔さんが経営してた六本木のバーに入り浸っていたところ、「君ら、面白いね」と気に入ってもらえて。その後、同じタイミングで木梨憲武さんや小木矢作の矢作さんとも繋がって飲むようになり、矢作さんとはもう何度も試合をさせていただいて…だんだんテレビ業界に近づいていきました。

――初めて出た番組が『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)の“安すぎて伝わらない素人芸選手権”でしたよね。初のテレビ出演は嬉しかったですか。

監督:それが「やったー出られる!」などの喜びは1mmもなくて。お誘いを受けたものの「ぽいぽい」の歌詞が大人の事情で放送できない文言が多く、放送作家さんから「こんな歌詞でどう?」って変えられたり削られたりで納得できず。「こんなの私達の面白みが削がれちゃうじゃん!」って不満に思うことだらけで、収録が終わってからも不満が残りました。

――瞬く間に大人気となりましたね。

監督:そうですね。当時やってたアメブロは一晩でアクセス数が爆発的に増え、当時住んでいた方南町の4畳半のアパートで「とんでもないことになった!」と感じました。その後は業界の大人達から「事務所に入れ」「CDを出せ」と詰められ、まるで大きな渦に飲み込まれるようで…。毎日、何かしら決断を迫られる日々でした。

◆全盛期は毎日泣いてばかりいた

――テレビで見るあやまんJAPANはいつも楽しそうでしたが、監督やメンバーの心境は“あげぽよ”ではなかったと伺いました。

監督:テレビに出るようになり10kg痩せたましたし、さくらだ(ファンタジスタさくらだ)はいきなり坊主頭にするし、みんな病み散らかしてました。「ぽいぽい」の着メロ化を巡り、私達が業界や大人の常識を知らなかったばかりにある恩人に不義理をしてしまい、その方に怒られて3人でワーワー泣いて反省会をしたり。毎日泣いているような状態でした。

テレビの依頼も多くいただき、「サンジャポ」(TBS系)から「黄金伝説」「逃走中」(テレビ朝日系)など、ニュースにバラエティに音楽番組とさまざまな番組に出させていただいたのはありがたかったです。でもなかには「これは…?」と思うような、私達には合わない依頼も詰め込まれて、みんなで神経をすり減らしてました。

――忙しかった時期は、当然ながらかつての試合(合コン)などはできなかった?

監督:まったく時間がありませんでしたし、いざこうして私達が世に出たことで、かつての試合相手達に「テレビで自分の話をされたら困る」と警戒されたのか、みんな離れていってしまったんです。自分達が好きに飲んで騒げる場がなくなったのも当時は辛かったですね。

◆燃え尽きていた時代。『有吉反省会』が転機に

――そのような大変な日々はどのくらい続いたのですか?

監督:2年くらいかな? ブームは長続きしないだろうと見込んでたので、2012年頃に六本木にバーを開いたんです。店の売上は黒字でしたが、気ままに対戦相手と好き勝手に試合するのとお客様をもてなすのとは違い、とにかく大変でした。なんとか1年半は頑張りましたが、その後は別の方に引き継ぎ私は退いて廃人と化しました(笑)。

――退いた後はどうされていたんですか?

監督:燃え尽きて誰とも会いたくないし、喋りたくなくて家でじっとしてました。少し外に出られるようになってからは、ヨガしたりスムージーを飲んだり、マクロビランチしたりと、とにかく体に良いことだけをしていました。気分は人生史上最高に暗くて、髪も黒く染めて服も黒いものばかり着てましたね。そんな中で2014年に『有吉反省会』(日本テレビ系)に出たんです。

――久々のテレビ出演だったんですよね。どうでしたか?

監督:実はその時、迷走してたのか舞台に出たり女優業に転身しようとしていたんです。番組出演後にブログのコメント欄には「監督は元気な方がいい」「あやまんJAPAN復活してほしい」ってコメントをたくさんいただいて。まだ需要があるんだ…と目覚めて、番組出演翌日に「あやまんJAPAN株式会社」設立の準備をしました。

――翌日に! どんな思いだったのでしょうか。

監督:一度は全国の皆さんに笑っていただいた「あやまんJAPAN」でもう一度花咲かせたいと思って。今度はテレビではなく全国の企業や学園祭や宴会など、あやまんを呼びたいって望んでいる方の元にいくイベント事業として再スタートを切ったんです。

◆セクハラで人を傷つけたくない

――現在はコンプラの厳しい時代となり、あやまんJAPANの芸風とはマッチしない点も多々あるかと思いますが、気をつけていることなどありますか?

監督:信じられないかもしれないですが、私は小学校の6年間は学級委員を6年間任されるほどの優等生でした。高校で“群馬イチ黒い”黒ギャル化してからは親や学校には迷惑かけましたが、売春や薬物、窃盗など超えちゃいけないラインは超えない優等生気質が根底にあったんです。だからこそ、セクハラで人を傷つけたくなくて。それには細心の注意を払ってきました。

――芸を披露する際に気を付けていることはありますか?

監督:今現在、イベントなどで呼ばれた時は「みなさんハラスメント疲れしていませんかー? この場だけはハッちゃけて良いんですよ」と下ネタで笑ってもいい雰囲気作り、一方で「SNSにはあげちゃダメですよ」と炎上を予防しています。私達の宴会芸は、クローズドな世界でお楽しみ下さるものとして意識しています。

――ゾーニングを心がけていると。年間を通してどの時期が忙しいのでしょうか?

監督:やはり盆暮ですね! お呼ばれしたらレギュラーメンバーの私、たまたまこ、サムギョプサル和田も基本は出張しますが、あやまんJAPANのメンバーは全国各地に30名ほどいますので、複数メンバーで場を盛り上げにお伺いしています。

――今後、新たな活動のご予定などあるのでしょうか。

監督:基本的には、どこでも誰でも大丈夫(DDD)の精神でみなさんの応募をお待ちしておりますし、今後は幼稚園や保育園のお遊戯や老人ホームのレクなどでもお呼ばれされるような全年齢対応型「ぽいぽいぴー」を作り出して普及できたらと思っています。

 平成を駆け抜け令和の時代に則しながら進化するあやまんJAPAN。後編ではあやまん監督の妊娠から出産、現在の心境について迫ります。

<文/河合桃子、写真提供/あやまん監督>

【河合桃子】
1977年、東京都生まれ。男性週刊誌の記者をしながら、気になった女性ネタを拾って書いたりしてます。2児を育てるシングルマザーでもあります。

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