戦前、戦中、戦後の現代史をまるごと描く『虎に翼』(NHK総合)が、ここまで社会的な意義を担う作品になるとは思わなかった。
そうした作品態度を単に「思想の押し付け」だとするのはあまりに乱暴ではないか。特に主人公・佐田寅子(伊藤沙莉)の学友だった弁護士・轟太一(戸塚純貴)から広がる同性愛に関する描写の数々には、さまざまな誤読が生じている。
イケメン研究をライフワークとする“イケメン・サーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が、本作の同性愛描写に寄せられる批判的意見に対して反論してみたい。
◆同性を好きなのかどうか、自覚していなかった頃
同僚判事の星航一(岡田将生)からプロポーズされたものの、佐田寅子は結婚に踏みきれずにいる。主な理由はふたつ。名字を変えなければならないこと。佐田優三(仲野太賀)との結婚で佐田姓になった寅子が星寅子となることへの不安。
彼女は最良の相談相手であり、最近やっと弁護士になった山田よね(土居志央梨)に会いに行く。第20週第100回。明律大学の学友だった轟太一とよねの共同弁護士事務所をたずねる。するとソファでうたた寝する轟とかたわらにはもうひとり男性がいる。ふたりは肩を寄せ合い、手を握りあっている。
轟といえば、無二の親友で戦後すぐに餓死した判事・花岡悟(岩田剛典)に対して友情以上の気持ちを抱いていた。第11週第51回でよねから「惚れてたんだろ、花岡に」と言われていたが、あの時点ではまだ自分が同性を好きなのかどうか、自覚していなかった。
◆内面が三島由紀夫的かは慎重になるべき
轟のセクシャリティの曖昧さが描かれるこの場面に対してネット上では、「朝ドラにBL要素?」といった斜めからの意見が散見されたが、花岡への友情以上の気持ちが語られたからといってそれをBLと断定することは、あまりに乱暴な誤読だったことは言うまでもない。
轟の性自認については一旦保留するとして、男性キャラクターたちのバリエーション豊かな恋愛模様を活写するBL的な関係性がどこまでもフィクショナルであるのに対して、轟が自覚するプロセスは戦後の時代性を背景にした切実な現実問題だ。
轟の内面世界を形成するモデルの一人として三島由紀夫がいる。戸塚純貴は監督とプロデューサーから「内面は三島由紀夫」と言われ、「腑に落ちた」そうなのである(『女性自身』インタビューより)。いやでも正直、一時期は熱狂的な三島文学ファンだった筆者からするとあまり合点がいかない。
戸塚は作家・三島由紀夫を決定づける記念碑的一作『仮面の告白』を参考にしたようだが、同作の主人公は幼少期から男性への性的志向を自認し、グイド・レーニが描いた『聖セバスチャンの殉教』など、美しい男性の肉体が深手を負うことに大きな興奮を覚える。ここには三島自身の英雄的な死への憧れをダイレクトに反映されている。
対する轟はよねに「(花岡が)兵隊に取られずに済むと思うと嬉しかった」と語っている。轟が三島的な内面性の人物ならむしろ花岡の華々しい戦死(英雄的な死)を望んだはずである。戦後の男性同性愛というと確かに三島由紀夫は理解の一助になるが、轟太一という人の内面が三島由紀夫的かどうかについては慎重になるべきだ。
◆棚上げになる結婚に取り組む意図
第51回放送後、脚本家の吉田恵里香は、X上で轟のセクシャリティについて「同性愛は設定でもなんでもない」と補足的に言及している。ひとりのキャラクターの性自認にとことん向き合う脚本家の態度からすると、「兵隊に取られずに済むと思うと嬉しかった」という台詞は、むしろ三島的人物の反語的な響きを伴っている。
もちろん戸塚の役作りでのアプローチとしてはある程度、三島的要素を認めつつ、本作が表象する同性愛については別の視点から考える必要がある。そもそも一度保留になっていた轟の性自認が、第100回になって寅子の再婚の話題からなぜ再び描かれるのか?
多くのBLドラマが現実問題として処理しきれないテーマが結婚なのだ。シーズン1当初はかなり誠実な製作態度が感じられた『おっさんずラブ』(テレビ朝日、2018年)でさえ、シーズンを重ねるごとに結局は結婚を棚上げにしてしまった。
BL的でありながら、中年男性たちの現実問題に向き合った『きのう何食べた?』(テレビ東京、2019年)は例外的な作品だったが、結婚とはBLドラマの枠内にには収まりきらない概念である。
『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(テレビ東京、2020年)でBLドラマの脚本を経験している吉田だからこそ、『虎に翼』では、寅子の再婚を契機としながら男性同性愛者たちをとりまく現実の課題を描くことを意図しているように筆者は思う。
◆思想の押し付けなのか?
第100回から週が明けた第21週第101回で、轟から相手の男性・遠藤時雄(和田正人)と交際していることを伝えられ、寅子はやや困惑ぎみの表情を浮かべる。寅子は「お二人を見て何とも言えない顔をしてしまったと思うの」と彼女なりの謝意を表すが、戦前、戦中に裕福な家庭で育った寅子のことだから、男性同性愛者に出会ったのは生まれて初めてのことなのだろう。
差別意識からの困惑ではなく、正直な驚き。飲み込むのに少し時間がかかるだけ。ネット上の反応を一応確認しておくと、セクシャルマイノリティに対する現代の理解を昭和の時代にねじ込んだ思想の押し付け云々……。BL誤読はまだかわいいほうか。あたた、頭がいたくなる。
でも少し冷静になろう。思想の押し付けか。そうか、そう感じる視聴者がいるのはわからないでもない。新民法草案や夫婦別姓など、本作は日本の現代史の諸問題の糸口を丁寧にひとつひとつ探してきた。長い対話を重ねるその間、ときに説明的になることは確かにあった。
どれだけ政治的な作品であってももっと簡潔にメッセージを伝えることはできるかもしれない。話題を同性愛に限るなら、例えば同性愛者として戦後の世界映画史に名を刻むジョゼフ・ロージーは、『鱒』(1982年)の中で、「異性愛、同性愛といった区別はもうないの。あるのは、ただ性的かそうでないかの違いだけ」と極めて抑制されたフレーズに集約している。
◆上野という場所の意味
では、毎週毎日放送される朝ドラにそれができないかというとそんなことはない。ある程度の説明はナレーションで補足しながら、(ロージーのような巨匠の演出力までは期待できないとしても)脚本を執筆する吉田の切実な迷いが主人公たちの台詞として生々しく結実している。今回の同性愛描写のテーマになった途端、政治的な思想の押し付けと一言で片付けるのは卑怯ではないか。
第一、作品とは製作される時代の視点から眼差し、解釈するもの。その解釈を押し付けととるかは受け手の自由だが、でもいつの時代も同性愛は当事者にとってアクチュアルな問題なのである。轟の弁護士事務所は、戦前はよねが働くカフェだった。その名残がある内観のソファを轟が恋人との憩いの場にする光景は、何ともメルヘンではないか。
上野という場所にもちゃんと意味がある。上野は戦後、男娼の街だった。昭和23年の上野を舞台にした唐十郎作『下谷万年町物語』が詳細に記す通りである。マイノリティたちのコミュニティとして上野が機能していた時代があったのだ(現在でもゲイバーが多数ある)。
「裁判官としても人としても私に見えてない世の中のこと、もっと知りたいの」と言った寅子を轟が「仲間たち」との会合に招待するのが、第103回。性転換手術(現在は性別適合手術と呼ぶのが適切)を受けて女性になったと語る山田(中村中)は、「私たち、上野の街にはお世話になってるから」と含みをもたせて言う。
自分を偽ることをやめて妻と離婚した千葉と一緒になった秋田を演じる水越とものりは現実にゲイの当事者である(中村中はトランスジェンダー)。ドラマの世界で当事者が当事者を演じることの社会的意義は強調しなければならない。
そして会合の終わり際、航一が婚姻届を出さない結婚の形を寅子に提案するのは、日本の法律上に定められていない同性婚の実情をあまりに痛切に射貫く提案だ。
<文/加賀谷健>
【加賀谷健】
音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu
そうした作品態度を単に「思想の押し付け」だとするのはあまりに乱暴ではないか。特に主人公・佐田寅子(伊藤沙莉)の学友だった弁護士・轟太一(戸塚純貴)から広がる同性愛に関する描写の数々には、さまざまな誤読が生じている。
イケメン研究をライフワークとする“イケメン・サーチャー”こと、コラムニスト・加賀谷健が、本作の同性愛描写に寄せられる批判的意見に対して反論してみたい。
◆同性を好きなのかどうか、自覚していなかった頃
同僚判事の星航一(岡田将生)からプロポーズされたものの、佐田寅子は結婚に踏みきれずにいる。主な理由はふたつ。名字を変えなければならないこと。佐田優三(仲野太賀)との結婚で佐田姓になった寅子が星寅子となることへの不安。
彼女は最良の相談相手であり、最近やっと弁護士になった山田よね(土居志央梨)に会いに行く。第20週第100回。明律大学の学友だった轟太一とよねの共同弁護士事務所をたずねる。するとソファでうたた寝する轟とかたわらにはもうひとり男性がいる。ふたりは肩を寄せ合い、手を握りあっている。
轟といえば、無二の親友で戦後すぐに餓死した判事・花岡悟(岩田剛典)に対して友情以上の気持ちを抱いていた。第11週第51回でよねから「惚れてたんだろ、花岡に」と言われていたが、あの時点ではまだ自分が同性を好きなのかどうか、自覚していなかった。
◆内面が三島由紀夫的かは慎重になるべき
轟のセクシャリティの曖昧さが描かれるこの場面に対してネット上では、「朝ドラにBL要素?」といった斜めからの意見が散見されたが、花岡への友情以上の気持ちが語られたからといってそれをBLと断定することは、あまりに乱暴な誤読だったことは言うまでもない。
轟の性自認については一旦保留するとして、男性キャラクターたちのバリエーション豊かな恋愛模様を活写するBL的な関係性がどこまでもフィクショナルであるのに対して、轟が自覚するプロセスは戦後の時代性を背景にした切実な現実問題だ。
轟の内面世界を形成するモデルの一人として三島由紀夫がいる。戸塚純貴は監督とプロデューサーから「内面は三島由紀夫」と言われ、「腑に落ちた」そうなのである(『女性自身』インタビューより)。いやでも正直、一時期は熱狂的な三島文学ファンだった筆者からするとあまり合点がいかない。
戸塚は作家・三島由紀夫を決定づける記念碑的一作『仮面の告白』を参考にしたようだが、同作の主人公は幼少期から男性への性的志向を自認し、グイド・レーニが描いた『聖セバスチャンの殉教』など、美しい男性の肉体が深手を負うことに大きな興奮を覚える。ここには三島自身の英雄的な死への憧れをダイレクトに反映されている。
対する轟はよねに「(花岡が)兵隊に取られずに済むと思うと嬉しかった」と語っている。轟が三島的な内面性の人物ならむしろ花岡の華々しい戦死(英雄的な死)を望んだはずである。戦後の男性同性愛というと確かに三島由紀夫は理解の一助になるが、轟太一という人の内面が三島由紀夫的かどうかについては慎重になるべきだ。
◆棚上げになる結婚に取り組む意図
第51回放送後、脚本家の吉田恵里香は、X上で轟のセクシャリティについて「同性愛は設定でもなんでもない」と補足的に言及している。ひとりのキャラクターの性自認にとことん向き合う脚本家の態度からすると、「兵隊に取られずに済むと思うと嬉しかった」という台詞は、むしろ三島的人物の反語的な響きを伴っている。
もちろん戸塚の役作りでのアプローチとしてはある程度、三島的要素を認めつつ、本作が表象する同性愛については別の視点から考える必要がある。そもそも一度保留になっていた轟の性自認が、第100回になって寅子の再婚の話題からなぜ再び描かれるのか?
多くのBLドラマが現実問題として処理しきれないテーマが結婚なのだ。シーズン1当初はかなり誠実な製作態度が感じられた『おっさんずラブ』(テレビ朝日、2018年)でさえ、シーズンを重ねるごとに結局は結婚を棚上げにしてしまった。
BL的でありながら、中年男性たちの現実問題に向き合った『きのう何食べた?』(テレビ東京、2019年)は例外的な作品だったが、結婚とはBLドラマの枠内にには収まりきらない概念である。
『30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい』(テレビ東京、2020年)でBLドラマの脚本を経験している吉田だからこそ、『虎に翼』では、寅子の再婚を契機としながら男性同性愛者たちをとりまく現実の課題を描くことを意図しているように筆者は思う。
◆思想の押し付けなのか?
第100回から週が明けた第21週第101回で、轟から相手の男性・遠藤時雄(和田正人)と交際していることを伝えられ、寅子はやや困惑ぎみの表情を浮かべる。寅子は「お二人を見て何とも言えない顔をしてしまったと思うの」と彼女なりの謝意を表すが、戦前、戦中に裕福な家庭で育った寅子のことだから、男性同性愛者に出会ったのは生まれて初めてのことなのだろう。
差別意識からの困惑ではなく、正直な驚き。飲み込むのに少し時間がかかるだけ。ネット上の反応を一応確認しておくと、セクシャルマイノリティに対する現代の理解を昭和の時代にねじ込んだ思想の押し付け云々……。BL誤読はまだかわいいほうか。あたた、頭がいたくなる。
でも少し冷静になろう。思想の押し付けか。そうか、そう感じる視聴者がいるのはわからないでもない。新民法草案や夫婦別姓など、本作は日本の現代史の諸問題の糸口を丁寧にひとつひとつ探してきた。長い対話を重ねるその間、ときに説明的になることは確かにあった。
どれだけ政治的な作品であってももっと簡潔にメッセージを伝えることはできるかもしれない。話題を同性愛に限るなら、例えば同性愛者として戦後の世界映画史に名を刻むジョゼフ・ロージーは、『鱒』(1982年)の中で、「異性愛、同性愛といった区別はもうないの。あるのは、ただ性的かそうでないかの違いだけ」と極めて抑制されたフレーズに集約している。
◆上野という場所の意味
では、毎週毎日放送される朝ドラにそれができないかというとそんなことはない。ある程度の説明はナレーションで補足しながら、(ロージーのような巨匠の演出力までは期待できないとしても)脚本を執筆する吉田の切実な迷いが主人公たちの台詞として生々しく結実している。今回の同性愛描写のテーマになった途端、政治的な思想の押し付けと一言で片付けるのは卑怯ではないか。
第一、作品とは製作される時代の視点から眼差し、解釈するもの。その解釈を押し付けととるかは受け手の自由だが、でもいつの時代も同性愛は当事者にとってアクチュアルな問題なのである。轟の弁護士事務所は、戦前はよねが働くカフェだった。その名残がある内観のソファを轟が恋人との憩いの場にする光景は、何ともメルヘンではないか。
上野という場所にもちゃんと意味がある。上野は戦後、男娼の街だった。昭和23年の上野を舞台にした唐十郎作『下谷万年町物語』が詳細に記す通りである。マイノリティたちのコミュニティとして上野が機能していた時代があったのだ(現在でもゲイバーが多数ある)。
「裁判官としても人としても私に見えてない世の中のこと、もっと知りたいの」と言った寅子を轟が「仲間たち」との会合に招待するのが、第103回。性転換手術(現在は性別適合手術と呼ぶのが適切)を受けて女性になったと語る山田(中村中)は、「私たち、上野の街にはお世話になってるから」と含みをもたせて言う。
自分を偽ることをやめて妻と離婚した千葉と一緒になった秋田を演じる水越とものりは現実にゲイの当事者である(中村中はトランスジェンダー)。ドラマの世界で当事者が当事者を演じることの社会的意義は強調しなければならない。
そして会合の終わり際、航一が婚姻届を出さない結婚の形を寅子に提案するのは、日本の法律上に定められていない同性婚の実情をあまりに痛切に射貫く提案だ。
<文/加賀谷健>
【加賀谷健】
音楽プロダクションで企画プロデュースの傍ら、大学時代から夢中の「イケメンと映画」をテーマにコラムを執筆している。ジャンルを問わない雑食性を活かして「BANGER!!!」他寄稿中。日本大学芸術学部映画学科監督コース卒業。Twitter:@1895cu