デビュー作『ウツ婚!!―死にたい私が生き延びるための婚活』で、うつ・摂食障害・対人恐怖・強迫性障害などの精神疾患を抱えながら婚活に励んだ日々を綴った石田月美さん。
コミック化もされ話題となったデビュー作の“その後の人生”を綴った『まだ、うまく眠れない』(文藝春秋)が2024年7月25日に出版されました。
この記事では、本書から一部抜粋してお届けします。
◆凡庸であるということは女性として生きる上で強い
Uは私の知る中でもっとも凡庸な女性である。そして凡庸であるということは女性として生きる上でとかく強い。Uを見ているとそんな風に思ってしまう。
Uと私は細く長い付き合いをしており、それはひとえにUの社交性の高さに依る。Uは女友だちがとても多く、私のような流浪している人間はすぐに関係が途切れてしまうのだが、Uは出会ってきた女性たち、所属していたコミュニティ、ほとんどすべてと縁が続いており、そんな彼女を私は羨ましくも真似できない、つくづくすごい人だと思ってきた。
しかしそれよりも素晴らしいUの才能を私は出会った頃に目の当たりにし、嫉妬するほどだった。10代の頃のUは瞬発的なユーモアに長けており、その言語能力は今物書きとして生きている私でも敵わないほど圧倒的で、私はUに引っ付きおこぼれをもらうように女友だちの輪に入れてもらうのが常であった。
「大人になるということは自分の凡庸さを受け入れるということ」と言った人がいるがUに関してそれは当てはまらない。彼女は努力して凡庸になっていった。彼女が大学に入った頃が転機だったように思う。
Uの入った女子大での不文律を私は知るすべもないが、彼女が大学生活を謳歌する上で、それはきっと必須だったのだろう。そのような文化を否定する気は全くないし私だって自分ではかなりのミーハーだと思うが、Uの才能に鑑みてひどく勿体ないと思った。
誰よりもお洒落で誰よりもジョークの上手い彼女は、どんどんマスメディアが垂れ流す記号的な女子大生になっていった。流行りなのだろうが既視感のある服装に髪型。有名女子アナが勧める化粧と美容法。そして、彼女のジョークはどんどん誰かを「いじる」ものになっていった。
Uに対して嫉妬するまでの憧れを抱いていた私はその変化に落胆し、おこがましくも苦言を呈したことがあるが、そんな私をUは「いつまでもサブカル」と一蹴した。Uが共通の女友だちの想い人とうっかり寝てしまったときも「酔っ払ってて断れなかった」と何の躊躇いもなく言い私を驚かせ、驚く私を鼻で笑った。
◆私を次第に見下すようになった友人
社会人になって自由に使えるお金が増えるとUはますます凡庸になっていった。実家住まいのUは給料すべてが自分の小遣いで、年上の彼氏と付き合っていたのでデート代もかからず、いわゆる「自分磨き」に精を出した。
ときたま会うUは完全に完璧に、ファッション誌が勧めるものすべてを身に着けており、顔にはシミも毛穴も一つもなく、爪は派手過ぎず地味過ぎないネイルがサロンで施してあった。
会うといっても、その場所はホットヨガなどに指定され、私は体験クーポン五百円みたいなもので一緒に居させてもらっていた。Uがいつもの週末を過ごす、ゴルフやエステに付き合うほどの財力を私は持っておらず、Uが喋る呪文のような基礎化粧品の数々や誰かの噂話に私は全くついていけなくなっていた。
でもそれは、ちゃんとした社会人になれていない私が悪いのだ。事実、Uの仕事の苦悩が私にはわかってあげられなかったし、いい歳こいてフリマで買った服を着ている自分とUのいつ会っても毎回違う最新流行のブランドバッグを見比べ落ち込んだりもした。
そんな私をUは次第に見下すようになり、彼女なりのジョークに包まれたその態度は私がUを敬遠する理由の一つにもなった。それでも何かあると私を誘ってくれるUはやっぱり寛大で、それが大酒飲みの彼女の酒のアテであろうと、私はできる限り顔を出した。
だから、その日の集まりも私は結構楽しみにしていたのだ。数年ぶりにUとその女友だちと数人で開かれた会に行くため、私は夫に数週間前から子どもたちを頼み、数日前から家族の好物だらけの夕飯を心がけ、朝早く起きて身支度を済ませ、意気揚々と出掛けていった。
◆久しぶりにあった友人の顔を見られなかった理由
久しぶりに会ったUはお腹を大きくしていた。私が第一声「おめでとう!」と言うと、Uは照れくさそうに「ありがとう」と言ってくれた。三々五々、誰かが集まるたびにUは「最近全然集まれなくてごめんね」と詫びていた。
私はそんなに定期的に集まっていたのかと驚き、更に1年位集まりに顔を出さなかっただけで謝罪するUに改めて社交性の高さを感じ、やっぱりUはUだな、すごいな、なんて思っていた。そして顔を出さなかった理由を述べようとする彼女に、誰でも色々あるしたった1年なのに!と彼女の律儀さにも驚き尊敬していた。理由を聞くまでは。
彼女は不妊治療をしており、あまり上手くいかない日々が続いていたが、ようやく授かった子が障害児だと羊水検査で分かった。それで中絶をしたが、自分は障害児しか授かれないのかと落ち込み、誰とも会う気分ではなかった。
しかしこのたび、健常者であろう子を授かることが出来て、安定期にも入ったので、皆にその報告も兼ねて久々に集まったのだ。
Uが上記の内容をたっぷり1時間以上かけて喋っている間、私は彼女の顔を見ることが出来なかった。自分でも大人気ないと思う。
Uのような思想を持つ者が少なくないのは知っているし、だからこそ羊水検査というものが存在するのだし、Uは何も悪いことをしたわけじゃない。法律で保障されている権利を行使しただけだ。
私も不妊治療経験者なのであのゴールの見えないつらさは知っている。それに障害児を育てるには大変な苦労と金銭が伴うことも、周りに障害児の母が多い私は理解しているつもりだ。
けれど、周りにそのような者が多いということは、Uとは違う決断をした者が多いということである。Uの言葉を借りれば「人生最大の悲劇」をしかと引き受けた者が。
集まっていた女性たちは私よりもずっと大人で、彼女の話が何を意味するかを理解しつつも、彼女に「今は元気そうで良かった」とか「赤ちゃん楽しみだね」とか、ちゃんと相応しい言葉をかけていた。
皆、私に障害があることも知っていた。私とUの双方に配慮しつつも団らんを続ける周囲に申し訳なくなりながら、私はぼんやりと「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」と啄木の詩を思い出しているだけだった。
◆思わず抱いてしまった「醜い感情」
Uは数年前に伴侶と購入した新築マンションの一階に保育所があるが同じような年代の夫婦が多いためそのマンションはベビーラッシュで希望の保育所に入れるかどうか不安だという話や、中絶をした後に夫婦で犬を飼ったが躾をする前にお腹の子を授かったので慌ててドッグトレーナーを呼んだ話などをしていた。もちろん、その犬はペットショップで購入されていた。
和気藹々と女性同士の話が進む中、私は怒りが静かに込み上げてくるのを抑えるのに必死だった。Uがペットショップで一番可愛く育てやすそうな犬を選んだという話を聞きながら子もそのように選んだのかと思い、湾岸沿いの蜂の巣のようなマンションからUのような思想を持つ子どもたちが大量に羽ばたいていくのかと思い、自分勝手な妄想に自分で腹を立てていた。
そしてこう思ったのだ。「障害児を産めばよかったのに」。私は確かにそう思った。一瞬のことで打ち消そうとしたけれど、私はこの醜い感情を持った自分に慄き、その瞬間を忘れることは不可能だった。私はそう、確かに思ったのだ。こっち側にきてみろ、と。
私は幼い頃から障害者を差別する人間に嫌悪感を持っている。その頃は自分が障害者であるなんて思ってもおらず、ひとえに母親の教育に依るものだった。マルクス主義者の母は、人間は平等であるべきで、そのためにあなたはいつでも弱い者の味方をしなさい、と私に教えた。そして強い者と闘いなさい、と。ベルリンの壁が崩壊しても母の教育は変わらなかった。
小学生のとき、聾(ろう)(聴覚に障害のあること)の児童がクラスにいた。その子と私は家族ぐるみで仲良くしており、よく家を行き来もしていた。
ある休み時間に教室で自席に座っていたその子が、後ろの席に座る児童から頭を足で小突かれていたことがある。小突いていた児童は学年一体躯の良いサッカーのリトルリーグに所属するお坊ちゃんで、お金持ちの一人息子である彼がワガママ放題なことは学校中の者が知っていた。
◆障害者を差別していたのは
私はそのお坊ちゃんが汚い上履きで聾の友人の頭を埃まみれにする有様を見て、なんとおぞましい光景だと憤慨し、私の毎週洗濯している美しい上履きのままお坊ちゃんの横っ面にドロップキックを思い切り喰らわせた。
お坊ちゃんは怒り、ご両親と共に我が家に抗議に来たが、母は形式的な謝罪だけして私をさほど叱らなかった。私は教師たちに何故蹴ったのか問われても友人の誇りを守ろうと口を割らず、小学生なのに2日間の停学になった。私はそれでも自分が正しいことをしたと思った。ずっと、私は正しいことをしたのだと思っていたのだ。
でも違った。私が障害者を差別していたのだ。私は聾の友人を弱者だと決めつけていた。お坊ちゃんを強者だとも。そしてその中間に自分を位置付け、より弱い者のために振るう弱者の強者への暴力を正当化した。
聾の友人の家へ遊びに行くときに、特権的なあわれみを全く感じていなかったかといえば嘘になる。私はその友人が聾だったからこそ我こそはと仲良くしたのだ。そこに強者の優越がなかったとは言わない。私は欺瞞に満ちた優しさで障害者への差別を行ってきたのではないだろうか。そうでなければ、Uに瞬間とはいえあの醜い思いを抱くわけがない。
Uの凡庸さは彼女が勝ち取ったものだった。彼女は女子大に入ってすぐ、私にこう言ったことがある。「女ってさ、パワーゲーマーじゃん。会った瞬間に勝ち負け決めて、それで付き合うんだよ」。私は然もありなんと、彼女の言語センスに頷くだけでそれが実際どういうものなのかあまり考えず「そうだね。そういうパワーの序列って下卑ているというか、ダサいよね」と彼女に同意を求めた。
すると彼女は、「そうかな。負けてる方がよっぽどダサいと思うけど」と言ったのだ。その返答通り、彼女は日々晒されるパワーゲームに負けるまいと自らをカスタムし続けた。思えば幼少期からUは負けん気の強い子だった。
だが賢さ故、明らかな勝ちを周囲に示すことはなかった。彼女は多くの女性たちの中で共有される価値観の中で、負けないが勝たないという一番聡い序列に自分を置いていた。
◆彼女を引き摺り下ろしたかった
才気煥発(かんぱつ)とはこのことと私が舌を巻いていた彼女のユーモアは、大人になるに従って人を見下すジョークとなっていった。そのことを私は嫌がったけれど、私の欺瞞に満ちた優しさよりもそれはずっと場を盛り上げた。
私は彼女やその周囲が共有する序列の最下層で、よく嘲りの対象となった。だが率先してピエロを引き受けた。それが進んで出来る自分は例外だという特権意識さえあった。
しかし、本当はその扱いを密かに憤っていたのだ。自身を例外だと思い込むことで序列の構造を無傷のまま再生産していたのは他ならぬ私だった。そのため、高みの見物を決め込む彼女を引き摺り下ろそうと、あの醜い思いが湧いたのだ。つまり、私もまた、その序列を共有する一員だったのである。
その会の間中、私は自らの差別意識と対峙するのに必死で、何を話したかも覚えておらず、見栄えの良い食事をひたすら頬張っていた。下手なことを喋らぬよう次々に食べ物を放り込み、胃がだるくなることで心の重だるさを誤魔化した。
Uは、「つらいことがあったけど逆に夫婦の絆が深まったって感じ!」とか「今日はみんなに力もらっちゃった!」とか、どこかで聞いたような文句を溌剌と繰り返していた。
寂しかった。あんなにも焦がれたUの言葉が彼女の社会的地位などとトレードオフになっているのを聞くのは寂しかったが、未熟な私のセンチメンタリズムよりも、Uの勝ち組女性としての強気で凡庸な生き方は分かりやすく確固たるものだった。
誰だって、私よりUになりたいだろう。それぐらい、彼女は自分がどう在れば幸福なのかを知っていたし、それを努力によって着実に手に入れていた。そして、その幸福を邪魔するものは排除した。それだけなのである。
帰り道、Uと二人きりになって私はようやく「大変だったね」とねぎらいの言葉をかけた。Uは「だってさ~あのとき産んじゃったら赤ん坊のどっかに欠損があるかもしんないって言われたんだよ。そんなん、うちの旦那さんも可哀想じゃない?」と私がUの決断を快く思っていないことを踏まえ伴侶のためとしてくれた。
そして明日は保育園の説明会なんだ、と言って電車を降りた。私は座席に座り直し、夫に帰宅の連絡と明日のスケジュール確認のメールを入れた。私たち夫婦も明日は説明会。脚に障害を持つ夫の片脚切断手術について、一緒に病院に聞きに行く予定だったから。
<文/石田月美 構成/女子SPA!編集部>
【石田月美】
1983年生まれ、東京育ち。高校を中退して家出少女として暮らし、高卒認定資格を得て大学に入学するも、中退。2014年から「婚活道場!」という婚活セミナーを立ち上げ、精神科のデイケア施設でも講師を務めた。2020年、自身の婚活体験とhow toを綴った『ウツ婚!!死にたい私が生き延びるための婚活』で文筆デビュー、2023年に漫画化された
コミック化もされ話題となったデビュー作の“その後の人生”を綴った『まだ、うまく眠れない』(文藝春秋)が2024年7月25日に出版されました。
この記事では、本書から一部抜粋してお届けします。
◆凡庸であるということは女性として生きる上で強い
Uは私の知る中でもっとも凡庸な女性である。そして凡庸であるということは女性として生きる上でとかく強い。Uを見ているとそんな風に思ってしまう。
Uと私は細く長い付き合いをしており、それはひとえにUの社交性の高さに依る。Uは女友だちがとても多く、私のような流浪している人間はすぐに関係が途切れてしまうのだが、Uは出会ってきた女性たち、所属していたコミュニティ、ほとんどすべてと縁が続いており、そんな彼女を私は羨ましくも真似できない、つくづくすごい人だと思ってきた。
しかしそれよりも素晴らしいUの才能を私は出会った頃に目の当たりにし、嫉妬するほどだった。10代の頃のUは瞬発的なユーモアに長けており、その言語能力は今物書きとして生きている私でも敵わないほど圧倒的で、私はUに引っ付きおこぼれをもらうように女友だちの輪に入れてもらうのが常であった。
「大人になるということは自分の凡庸さを受け入れるということ」と言った人がいるがUに関してそれは当てはまらない。彼女は努力して凡庸になっていった。彼女が大学に入った頃が転機だったように思う。
Uの入った女子大での不文律を私は知るすべもないが、彼女が大学生活を謳歌する上で、それはきっと必須だったのだろう。そのような文化を否定する気は全くないし私だって自分ではかなりのミーハーだと思うが、Uの才能に鑑みてひどく勿体ないと思った。
誰よりもお洒落で誰よりもジョークの上手い彼女は、どんどんマスメディアが垂れ流す記号的な女子大生になっていった。流行りなのだろうが既視感のある服装に髪型。有名女子アナが勧める化粧と美容法。そして、彼女のジョークはどんどん誰かを「いじる」ものになっていった。
Uに対して嫉妬するまでの憧れを抱いていた私はその変化に落胆し、おこがましくも苦言を呈したことがあるが、そんな私をUは「いつまでもサブカル」と一蹴した。Uが共通の女友だちの想い人とうっかり寝てしまったときも「酔っ払ってて断れなかった」と何の躊躇いもなく言い私を驚かせ、驚く私を鼻で笑った。
◆私を次第に見下すようになった友人
社会人になって自由に使えるお金が増えるとUはますます凡庸になっていった。実家住まいのUは給料すべてが自分の小遣いで、年上の彼氏と付き合っていたのでデート代もかからず、いわゆる「自分磨き」に精を出した。
ときたま会うUは完全に完璧に、ファッション誌が勧めるものすべてを身に着けており、顔にはシミも毛穴も一つもなく、爪は派手過ぎず地味過ぎないネイルがサロンで施してあった。
会うといっても、その場所はホットヨガなどに指定され、私は体験クーポン五百円みたいなもので一緒に居させてもらっていた。Uがいつもの週末を過ごす、ゴルフやエステに付き合うほどの財力を私は持っておらず、Uが喋る呪文のような基礎化粧品の数々や誰かの噂話に私は全くついていけなくなっていた。
でもそれは、ちゃんとした社会人になれていない私が悪いのだ。事実、Uの仕事の苦悩が私にはわかってあげられなかったし、いい歳こいてフリマで買った服を着ている自分とUのいつ会っても毎回違う最新流行のブランドバッグを見比べ落ち込んだりもした。
そんな私をUは次第に見下すようになり、彼女なりのジョークに包まれたその態度は私がUを敬遠する理由の一つにもなった。それでも何かあると私を誘ってくれるUはやっぱり寛大で、それが大酒飲みの彼女の酒のアテであろうと、私はできる限り顔を出した。
だから、その日の集まりも私は結構楽しみにしていたのだ。数年ぶりにUとその女友だちと数人で開かれた会に行くため、私は夫に数週間前から子どもたちを頼み、数日前から家族の好物だらけの夕飯を心がけ、朝早く起きて身支度を済ませ、意気揚々と出掛けていった。
◆久しぶりにあった友人の顔を見られなかった理由
久しぶりに会ったUはお腹を大きくしていた。私が第一声「おめでとう!」と言うと、Uは照れくさそうに「ありがとう」と言ってくれた。三々五々、誰かが集まるたびにUは「最近全然集まれなくてごめんね」と詫びていた。
私はそんなに定期的に集まっていたのかと驚き、更に1年位集まりに顔を出さなかっただけで謝罪するUに改めて社交性の高さを感じ、やっぱりUはUだな、すごいな、なんて思っていた。そして顔を出さなかった理由を述べようとする彼女に、誰でも色々あるしたった1年なのに!と彼女の律儀さにも驚き尊敬していた。理由を聞くまでは。
彼女は不妊治療をしており、あまり上手くいかない日々が続いていたが、ようやく授かった子が障害児だと羊水検査で分かった。それで中絶をしたが、自分は障害児しか授かれないのかと落ち込み、誰とも会う気分ではなかった。
しかしこのたび、健常者であろう子を授かることが出来て、安定期にも入ったので、皆にその報告も兼ねて久々に集まったのだ。
Uが上記の内容をたっぷり1時間以上かけて喋っている間、私は彼女の顔を見ることが出来なかった。自分でも大人気ないと思う。
Uのような思想を持つ者が少なくないのは知っているし、だからこそ羊水検査というものが存在するのだし、Uは何も悪いことをしたわけじゃない。法律で保障されている権利を行使しただけだ。
私も不妊治療経験者なのであのゴールの見えないつらさは知っている。それに障害児を育てるには大変な苦労と金銭が伴うことも、周りに障害児の母が多い私は理解しているつもりだ。
けれど、周りにそのような者が多いということは、Uとは違う決断をした者が多いということである。Uの言葉を借りれば「人生最大の悲劇」をしかと引き受けた者が。
集まっていた女性たちは私よりもずっと大人で、彼女の話が何を意味するかを理解しつつも、彼女に「今は元気そうで良かった」とか「赤ちゃん楽しみだね」とか、ちゃんと相応しい言葉をかけていた。
皆、私に障害があることも知っていた。私とUの双方に配慮しつつも団らんを続ける周囲に申し訳なくなりながら、私はぼんやりと「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」と啄木の詩を思い出しているだけだった。
◆思わず抱いてしまった「醜い感情」
Uは数年前に伴侶と購入した新築マンションの一階に保育所があるが同じような年代の夫婦が多いためそのマンションはベビーラッシュで希望の保育所に入れるかどうか不安だという話や、中絶をした後に夫婦で犬を飼ったが躾をする前にお腹の子を授かったので慌ててドッグトレーナーを呼んだ話などをしていた。もちろん、その犬はペットショップで購入されていた。
和気藹々と女性同士の話が進む中、私は怒りが静かに込み上げてくるのを抑えるのに必死だった。Uがペットショップで一番可愛く育てやすそうな犬を選んだという話を聞きながら子もそのように選んだのかと思い、湾岸沿いの蜂の巣のようなマンションからUのような思想を持つ子どもたちが大量に羽ばたいていくのかと思い、自分勝手な妄想に自分で腹を立てていた。
そしてこう思ったのだ。「障害児を産めばよかったのに」。私は確かにそう思った。一瞬のことで打ち消そうとしたけれど、私はこの醜い感情を持った自分に慄き、その瞬間を忘れることは不可能だった。私はそう、確かに思ったのだ。こっち側にきてみろ、と。
私は幼い頃から障害者を差別する人間に嫌悪感を持っている。その頃は自分が障害者であるなんて思ってもおらず、ひとえに母親の教育に依るものだった。マルクス主義者の母は、人間は平等であるべきで、そのためにあなたはいつでも弱い者の味方をしなさい、と私に教えた。そして強い者と闘いなさい、と。ベルリンの壁が崩壊しても母の教育は変わらなかった。
小学生のとき、聾(ろう)(聴覚に障害のあること)の児童がクラスにいた。その子と私は家族ぐるみで仲良くしており、よく家を行き来もしていた。
ある休み時間に教室で自席に座っていたその子が、後ろの席に座る児童から頭を足で小突かれていたことがある。小突いていた児童は学年一体躯の良いサッカーのリトルリーグに所属するお坊ちゃんで、お金持ちの一人息子である彼がワガママ放題なことは学校中の者が知っていた。
◆障害者を差別していたのは
私はそのお坊ちゃんが汚い上履きで聾の友人の頭を埃まみれにする有様を見て、なんとおぞましい光景だと憤慨し、私の毎週洗濯している美しい上履きのままお坊ちゃんの横っ面にドロップキックを思い切り喰らわせた。
お坊ちゃんは怒り、ご両親と共に我が家に抗議に来たが、母は形式的な謝罪だけして私をさほど叱らなかった。私は教師たちに何故蹴ったのか問われても友人の誇りを守ろうと口を割らず、小学生なのに2日間の停学になった。私はそれでも自分が正しいことをしたと思った。ずっと、私は正しいことをしたのだと思っていたのだ。
でも違った。私が障害者を差別していたのだ。私は聾の友人を弱者だと決めつけていた。お坊ちゃんを強者だとも。そしてその中間に自分を位置付け、より弱い者のために振るう弱者の強者への暴力を正当化した。
聾の友人の家へ遊びに行くときに、特権的なあわれみを全く感じていなかったかといえば嘘になる。私はその友人が聾だったからこそ我こそはと仲良くしたのだ。そこに強者の優越がなかったとは言わない。私は欺瞞に満ちた優しさで障害者への差別を行ってきたのではないだろうか。そうでなければ、Uに瞬間とはいえあの醜い思いを抱くわけがない。
Uの凡庸さは彼女が勝ち取ったものだった。彼女は女子大に入ってすぐ、私にこう言ったことがある。「女ってさ、パワーゲーマーじゃん。会った瞬間に勝ち負け決めて、それで付き合うんだよ」。私は然もありなんと、彼女の言語センスに頷くだけでそれが実際どういうものなのかあまり考えず「そうだね。そういうパワーの序列って下卑ているというか、ダサいよね」と彼女に同意を求めた。
すると彼女は、「そうかな。負けてる方がよっぽどダサいと思うけど」と言ったのだ。その返答通り、彼女は日々晒されるパワーゲームに負けるまいと自らをカスタムし続けた。思えば幼少期からUは負けん気の強い子だった。
だが賢さ故、明らかな勝ちを周囲に示すことはなかった。彼女は多くの女性たちの中で共有される価値観の中で、負けないが勝たないという一番聡い序列に自分を置いていた。
◆彼女を引き摺り下ろしたかった
才気煥発(かんぱつ)とはこのことと私が舌を巻いていた彼女のユーモアは、大人になるに従って人を見下すジョークとなっていった。そのことを私は嫌がったけれど、私の欺瞞に満ちた優しさよりもそれはずっと場を盛り上げた。
私は彼女やその周囲が共有する序列の最下層で、よく嘲りの対象となった。だが率先してピエロを引き受けた。それが進んで出来る自分は例外だという特権意識さえあった。
しかし、本当はその扱いを密かに憤っていたのだ。自身を例外だと思い込むことで序列の構造を無傷のまま再生産していたのは他ならぬ私だった。そのため、高みの見物を決め込む彼女を引き摺り下ろそうと、あの醜い思いが湧いたのだ。つまり、私もまた、その序列を共有する一員だったのである。
その会の間中、私は自らの差別意識と対峙するのに必死で、何を話したかも覚えておらず、見栄えの良い食事をひたすら頬張っていた。下手なことを喋らぬよう次々に食べ物を放り込み、胃がだるくなることで心の重だるさを誤魔化した。
Uは、「つらいことがあったけど逆に夫婦の絆が深まったって感じ!」とか「今日はみんなに力もらっちゃった!」とか、どこかで聞いたような文句を溌剌と繰り返していた。
寂しかった。あんなにも焦がれたUの言葉が彼女の社会的地位などとトレードオフになっているのを聞くのは寂しかったが、未熟な私のセンチメンタリズムよりも、Uの勝ち組女性としての強気で凡庸な生き方は分かりやすく確固たるものだった。
誰だって、私よりUになりたいだろう。それぐらい、彼女は自分がどう在れば幸福なのかを知っていたし、それを努力によって着実に手に入れていた。そして、その幸福を邪魔するものは排除した。それだけなのである。
帰り道、Uと二人きりになって私はようやく「大変だったね」とねぎらいの言葉をかけた。Uは「だってさ~あのとき産んじゃったら赤ん坊のどっかに欠損があるかもしんないって言われたんだよ。そんなん、うちの旦那さんも可哀想じゃない?」と私がUの決断を快く思っていないことを踏まえ伴侶のためとしてくれた。
そして明日は保育園の説明会なんだ、と言って電車を降りた。私は座席に座り直し、夫に帰宅の連絡と明日のスケジュール確認のメールを入れた。私たち夫婦も明日は説明会。脚に障害を持つ夫の片脚切断手術について、一緒に病院に聞きに行く予定だったから。
<文/石田月美 構成/女子SPA!編集部>
【石田月美】
1983年生まれ、東京育ち。高校を中退して家出少女として暮らし、高卒認定資格を得て大学に入学するも、中退。2014年から「婚活道場!」という婚活セミナーを立ち上げ、精神科のデイケア施設でも講師を務めた。2020年、自身の婚活体験とhow toを綴った『ウツ婚!!死にたい私が生き延びるための婚活』で文筆デビュー、2023年に漫画化された