米津玄師が8月25日と9月1日放送の『日曜日の初耳学』(TBS系)に2週続けて出演。予備校講師の林修氏とのディープな対談が話題を呼んでいます。
ミステリアスなカリスマといった雰囲気とは打って変わって、率直で真摯に語っていました。
◆米津玄師、初バラエティ出演。番組構成は歌詞を重視しすぎでは?
創作論から人生観に至るまで多岐にわたったトーク。自身の音楽活動について、「人生は生きるに値する」という宮崎駿監督の言葉にインスパイアされたと語る一方で、「毎朝起きて電車に乗って勤める人たちを尊敬する。そういう人たちがいなければ、自分のようなちゃらんぽらんな人間は生きていけない」と、ユーモアを交えて告白するシーンも印象的でした。
そして林先生による米津玄師の楽曲考察になると、議論は核心へと迫ります。代表曲「Lemon」では、曲中で3度出てくる<今でもあなたはわたしの光>がキーフレーズだと論じ、そこから全体の歌詞が出来上がったのではないかとの持論を展開していました。
また朝ドラ『虎に翼』の主題歌「さよーならまたいつか!」の<しぐるるやしぐるるや町へ歩み入る>が俳人の種田山頭火からの引用であることを指摘。東大の現代文入試問題のテキストを米津に手渡し、この本歌取りが過去と未来を橋渡しする「双交通」であると熱く語るシーンは本対談のハイライトでした。
日曜のプライムタイムとしては突っ込んだ話題で、贅沢な瞬間だったことは間違いありません。しかも米津玄師の初バラエティ出演だったこともレア度を高めています。けれども、余計にこれが日本の音楽受容の偏りを表しているようにも見えました。
いまの日本での音楽の聞かれ方は、あまりにも歌詞を重視しすぎるのではないか。歌詞の意味や、作者の意図を考察することばかりに忙殺されているのではないか、という問題です。
◆言葉と分離させられて音楽や曲は一体どこへ
今回の『日曜日の初耳学』に限らず、昨今は“刺さる”というコピーで、歌詞の数行を抜き出した音楽特番も人気です。テレビ以外でも、深読みに次ぐ深読みを重ねて陰謀論のように歌詞から別のストーリーをひねり出す個人のブログなどがありますが、音楽や曲は一体どこへ行ってしまったのでしょうか?
もちろん歌詞は重要です。「雨にぬれても」や「アルフィー」などで知られる作曲家のバート・バカラック(1928-2023)は、「人は結局メロディではなく歌詞を口笛で吹いているのではないか」と言っていますし、細野晴臣との共演でも知られるアメリカのシンガーソングライター、ヴァン・ダイク・パークスも詞を書くことは極めて個人的な内面に関わる芸術であり軽々しく意見することはできない、と語っています。
けれども、それはあくまでも音楽を構成するパーツのひとつとしての話です。メロディ、リズム、ハーモニー、サウンドと相互に機能し合って、言葉が発する音やもともとの語義が多面的な味わいを持つようになる。それが曲の中で歌詞を楽しむことであるはずなのですね。
こういうことを言うと、“『EIGHT-JAM』(テレビ朝日系 旧『関ジャム 完全燃SHOW』)のような番組を知らないのか”と言われるかもしれません。確かに現役のミュージシャンによる名曲の構造分析は大変勉強になります。けれども、あれも技術を必要とする専門的な分解の作業であって、現代文的な読解のテクニックで歌詞の意味を考察する作業と大差なくなってしまいます。
つまり、言葉と音楽が分離した状態でしか曲に接することができなくなっている。これが、いまの日本の音楽受容のおける大きな問題なのではないかと思うのです。
◆“分かる”“理解できる”を追求しすぎの世情
では、なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか?
そこには、“分かる”、“理解できる”という成果を過度に追求する世情が影響しているように感じます。
異質なもの、自分の理解を超えたものへの興味、関心、許容度が大幅に低下している。何にでも解答や解決法がなければ心配になってしまうので、とりあえず着地点を作って、自分の中で処理できたことにしなければならないという強迫観念ですね。
簡単に言えば、難しいことに耐えられなくなっているのです。
だから、歌詞には必ず隠された作者の意図があり、感動的なメロディやコード進行には計算された工夫があるということになってしまう。
「Lemon」の歌詞で“米津の言いたいこと”にクローズアップした林先生も、この病から逃れられなかったと言えるでしょう。
それを改めて浮き彫りにしたことこそが、今回の対談の大きな価値なのです。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
ミステリアスなカリスマといった雰囲気とは打って変わって、率直で真摯に語っていました。
◆米津玄師、初バラエティ出演。番組構成は歌詞を重視しすぎでは?
創作論から人生観に至るまで多岐にわたったトーク。自身の音楽活動について、「人生は生きるに値する」という宮崎駿監督の言葉にインスパイアされたと語る一方で、「毎朝起きて電車に乗って勤める人たちを尊敬する。そういう人たちがいなければ、自分のようなちゃらんぽらんな人間は生きていけない」と、ユーモアを交えて告白するシーンも印象的でした。
そして林先生による米津玄師の楽曲考察になると、議論は核心へと迫ります。代表曲「Lemon」では、曲中で3度出てくる<今でもあなたはわたしの光>がキーフレーズだと論じ、そこから全体の歌詞が出来上がったのではないかとの持論を展開していました。
また朝ドラ『虎に翼』の主題歌「さよーならまたいつか!」の<しぐるるやしぐるるや町へ歩み入る>が俳人の種田山頭火からの引用であることを指摘。東大の現代文入試問題のテキストを米津に手渡し、この本歌取りが過去と未来を橋渡しする「双交通」であると熱く語るシーンは本対談のハイライトでした。
日曜のプライムタイムとしては突っ込んだ話題で、贅沢な瞬間だったことは間違いありません。しかも米津玄師の初バラエティ出演だったこともレア度を高めています。けれども、余計にこれが日本の音楽受容の偏りを表しているようにも見えました。
いまの日本での音楽の聞かれ方は、あまりにも歌詞を重視しすぎるのではないか。歌詞の意味や、作者の意図を考察することばかりに忙殺されているのではないか、という問題です。
◆言葉と分離させられて音楽や曲は一体どこへ
今回の『日曜日の初耳学』に限らず、昨今は“刺さる”というコピーで、歌詞の数行を抜き出した音楽特番も人気です。テレビ以外でも、深読みに次ぐ深読みを重ねて陰謀論のように歌詞から別のストーリーをひねり出す個人のブログなどがありますが、音楽や曲は一体どこへ行ってしまったのでしょうか?
もちろん歌詞は重要です。「雨にぬれても」や「アルフィー」などで知られる作曲家のバート・バカラック(1928-2023)は、「人は結局メロディではなく歌詞を口笛で吹いているのではないか」と言っていますし、細野晴臣との共演でも知られるアメリカのシンガーソングライター、ヴァン・ダイク・パークスも詞を書くことは極めて個人的な内面に関わる芸術であり軽々しく意見することはできない、と語っています。
けれども、それはあくまでも音楽を構成するパーツのひとつとしての話です。メロディ、リズム、ハーモニー、サウンドと相互に機能し合って、言葉が発する音やもともとの語義が多面的な味わいを持つようになる。それが曲の中で歌詞を楽しむことであるはずなのですね。
こういうことを言うと、“『EIGHT-JAM』(テレビ朝日系 旧『関ジャム 完全燃SHOW』)のような番組を知らないのか”と言われるかもしれません。確かに現役のミュージシャンによる名曲の構造分析は大変勉強になります。けれども、あれも技術を必要とする専門的な分解の作業であって、現代文的な読解のテクニックで歌詞の意味を考察する作業と大差なくなってしまいます。
つまり、言葉と音楽が分離した状態でしか曲に接することができなくなっている。これが、いまの日本の音楽受容のおける大きな問題なのではないかと思うのです。
◆“分かる”“理解できる”を追求しすぎの世情
では、なぜこのようなことが起きてしまうのでしょうか?
そこには、“分かる”、“理解できる”という成果を過度に追求する世情が影響しているように感じます。
異質なもの、自分の理解を超えたものへの興味、関心、許容度が大幅に低下している。何にでも解答や解決法がなければ心配になってしまうので、とりあえず着地点を作って、自分の中で処理できたことにしなければならないという強迫観念ですね。
簡単に言えば、難しいことに耐えられなくなっているのです。
だから、歌詞には必ず隠された作者の意図があり、感動的なメロディやコード進行には計算された工夫があるということになってしまう。
「Lemon」の歌詞で“米津の言いたいこと”にクローズアップした林先生も、この病から逃れられなかったと言えるでしょう。
それを改めて浮き彫りにしたことこそが、今回の対談の大きな価値なのです。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4