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「おまえは醜い」「消えろ」…薬物依存の母に否定され続けた私が、自己肯定感を取り戻すまで/おおたわ史絵

女子SPA! 2024年9月12日 8時45分

テレビ等のコメンテーターとしても活躍する、内科医のおおたわ史絵(ふみえ)さん。今年4月に文庫化された『母を捨てるということ』(朝日文庫)は、母親との壮絶な日々をつづって大きな話題となりました。

◆注射器が散乱している家

おおたわさんの母は、鎮痛剤の常用から依存症になり、使用済み注射器が散乱しているような家庭でした。母は些細なことで激高し、投げつけられた灰皿で額から血を流したこと、煙草の火を手に押し付けられそうになったことも。薬をやめさせようとすると「お前なんか消えろ、死ね」と罵倒され、いつか母を殺してしまうのではという恐怖から関係を断ったといいます。母は76歳の時、自室で亡くなっていました。

わたくし大日方理子は、13年前、おおたわさんがテレビ出演する時のスタイリストをしていました。その後、著書を読んで衝撃を受け、今回インタビューさせてもらったのです。全3回の第1回目は、「自己肯定感」について、聞きました。

◆「頑張らなければ価値がない人間」?

――『母を捨てるということ』の中に、「私は不安定で自己評価が低い人間だった」という一文があり、驚きました。私が知っているおおたわさんはいつもカラッと明るく聡明で、自己肯定感が低いイメージはありませんでした。

おおたわさん(以下おおたわ):テレビを見ていた方も、いつも平常心でざっくばらんに話す明るい人というイメージを持ってくれる人が多いみたいですね。私の場合、自分のネガティブなドロドロした部分は見られたくないと思っていたから、明るい面を表に出してきたのかもしれない。ごく一部の人、大学の同級生や夫とかは、私の不安定で暗い面を知っていると思います。

<怒りながら母の口から出るのは、いつもきまって「ほかの子とおんなじでどうするのっ?ふつうでいいわけないでしょ!」。このセリフだった。

それは、「おまえはふつうにしていたら価値がない人間だ。誰よりも頑張らなくちゃ許されない人間なんだ」と言われているようだった>(『母を捨てるということ』より)

――子どもの頃、親に否定され続けると自己肯定感が育たない、と一般に言われますが…おおたわさんはどんな子でしたか?

おおたわ:小学校の頃はとてもおとなしい子でした。先生が「わかる人、手を挙げて」と言って、答えがわかったとしても、みんなの前で発表するのが怖くて、手は上げられなかった。運動会では1番を取ると目立ってしまうから、わざと遅く走っていました。爪を噛んだり、髪を抜いたりという自傷もひどかった。

◆自分の顔が嫌い…中学3年で整形しようとした

おおたわ:この頃は、自分の容姿にも性格にも自信がなくて「私なんかダメだ」と思っていたんです。母にも、「おまえは醜い」「デブだ」と毎日のように言われていました。

自分の顔が嫌いで整形手術を受けたくて、お年玉やお小遣いを貯めて、中学3年の春休みに美容整形クリニックに電話をしたことがあります。まだ子供だったので、電話したらその日のうちに手術の日程が決まって、春休み中に全て顔が変えられて、高校からは新しい人生が始まると思っていたんですね。でも、カウンセリングの予約を取れるのは来月と言われ、高校入学までに間に合わないと分かって、整形手術を受けることを諦めました。

――お母さんも、何度も整形していたそうですね。

おおたわ:はい。「自分の顔が大嫌い」というのは、結局、「自分が嫌い」ということの表れなんですよね。

今となっては、あのとき整形しなくて良かったなと思っています。

私は優しい父のことが大好きでした。亡くなってから日が経つと、だんだんと普段父がどんな表情をしたのか忘れちゃうんですよね。ふと鏡を見たときに、左右の目の2重幅が違うところが父にそっくりだと気付いたのです。

それ以来、整形するのはやめておこう、自分の顔を好きになれるような生き方をしていこうと思っています。しわはこれからも増えるけれど、そんな自分の顔も許せるといいなと思います。

◆肯定感の低さを埋めるためにやってきた人生

――今も自己肯定感は低いままですか?それとも何か肯定感が上がるきっかけがあったのですか?

おおたわ:そのときはもがいていたのでわからなかったけれど、肯定感の低さを埋めるための努力をいっぱい重ねてきた人生だった気がします。自己肯定感が低ければ低いほど、たくさん積み重ねないと埋まらない。「なんでそんなに自分を追い込むの」と友達に言われたことがあって。

もともとは1日ゴロゴロしていたいくらいの怠け者なんです。それでも、母のプレッシャーもあってなんだかんだ勉強してきたことで、自分に少し自信がついたり、試験に受かったり、医師免許を取って仕事をするとか、ひとつひとつ「自分は大丈夫なんだ」と証明するためにやってきたような気がしています。

なぜ本を出したりテレビに出演するのかというのも、人から認められたい想いが根底にあるのだと思います。コネクションもない、文章のプロでもない私にとっては突拍子もないチャレンジだったわけだけど、メディアに出たいという自分を駆り立てる強い想いだけがあって、やり続けてきて今に至るという感じ。

これを言うと驚かれますが、医師免許を取ってからも「頭が悪い」という劣等感は消えていません。50歳を過ぎてから総合内科専門医の試験に挑戦したのも、そんな劣等感を少しでも払拭したかったからかもしれません。

◆うつ病で半年寝たきりに。でも人は回復できる

――最近、「自己肯定感を上げる方法」的な本が多く出版されています。一方で、肯定感は子供のときに育まれるもので、大人になってから上げるのは難しいという意見もありますよね。

おおたわ:私は、肯定感は上げられると思います。人間にはレジリエンス(回復力)があると思うんです。

精神科の先生が言っていたのですが、うつ病になってから回復した人は、以前より人格がワンランクアップすることが多いと。これもレジリエンスの例ですよね。

私も、研修医の頃に、うつ状態で半年ぐらい寝たきりになった経験があります。当時、研修医の働く環境は劣悪で、休みも寝る時間もろくにありませんでした。必死に研修期間を乗り切った結果、体も精神も疲れきってしまって、決まっていた就職を辞退せざるを得なくなりました。

「死のうかな」くらいしか考えられなかった状態から半年ぐらい経って、また社会に戻って生きていかなくてはと思い始めたときに、このまま医師の世界に戻ったら、また自分を追い込んで破綻するのではないかという恐怖がありました。医師としての自分とは別に、もうひとつ何か自分を吐露できる場所が必要だと思って、自分の気持ちを文章に書き始めたんです。

自分がダメになってしまうという焦りが異様なパワーを生んだんでしょうね。書いた文章を見てもらえないかと、いろんな雑誌に載っている編集部の電話番号に電話をかけまくりました。担当の方が会ってくださって、面白いねと、「週刊朝日」にショートコラムが掲載されることになったんですよ。それが、本を書いたりメディアに出るようになったすべての始まりです。

布団をかぶって寝ていることしかできない最悪な半年間だったけれど、あれがあったから今があると思っています。うつ状態を経験してからのほうが、できることが増えたし、アプローチ方法が変わったし、自分に対する感覚が変わりましたね。

◆結局、人との関わりが肯定感を上げてくれる

おおたわ:わたしにとっては結婚も、肯定感を上げてくれた出来事のひとつです。この世の中でたった1人でも自分を認めてくれる人がいる、そんな風に思えた。

今でも覚えていますが、中学生の頃、友達と「ねえ、もしも神様がいて、たったひとつだけ願いを叶えてくれるって言ったら何を願う?」という話をしてたんですね。私は一瞬で、こう答えました。「心から安心できる場所がひとつ欲しい」って。

結婚によってやっと心から安心できる場所を得ることができたのかもしれません。

――肯定感が低い人はどうやって生きて行ったらいいでしょうか?やはり成功体験が大切ですか?

おおたわ:もちろん、肯定感の低さを埋めるための努力は無駄にならないと思います。勉強したり、一生懸命に仕事をするのも、すごく大事だと思う。そこで得たことは誰かに奪われることがないものだし、ひとつひとつのことが少しずつ自分の肯定感を押し上げてくれると思います。ただ、自分だけで自己肯定感を上げるのは限界があるかもしれない。

親が肯定感を育ててくれたら1番ありがたいけれど、色んな家庭環境があって、それがうまくいかないこともあるでしょう。親だけじゃなくて、その後の人生で知り合う人たちが、あなたのことを認めてくれたり、褒めてくれたり、好きになってくれる可能性があると思う。

私も中学・高校・大学で出会った友人や、夫や、仕事で関わった色んな人たちが、少しずつ自分の気持ちを押し上げてくれました。人との関わりをなるべく怖がらずに、行動していったらいいんじゃないかなと思います。

<取材・文/大日方理子 撮影/山田耕司(扶桑社)>

【おおたわ史絵】
東京女子医科大学卒業。大学病院、救命救急センター、地域開業医を経て現職。刑務所受刑者の診療にも携わる。また、情報番組などのコメンテーターとしても活躍。著書『女医の花道!』はベストセラーとなり、近著に『プリズン・ドクター』『母を捨てるということ』などがある

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