ついに最終回。
月9『海のはじまり』(フジテレビ 月曜よる9時~)最終回の冒頭は、ありえたかもしれない世界が広がる。明るいオレンジ色の服を着た水季(古川琴音)がおにぎりを握っている。ちょっとキッチンとリビングが広くて、海(泉谷星奈)と夏(目黒蓮)が楽しい家族をやっている。
でも、それは夢――。
◆最終回は贅沢なエンディング
最終回はまさにエンディングといった風情。連ドラの最終回のラスト数分で、その後の登場人物たちのスケッチが描かれることがよくあるけれど、それを丸々1話分を使って見せている印象を受けた。全12話あったおかげの贅沢なエンディングである。
南雲家では、海が夏のいない朝に所在なさげ。悩んで夏の家を飛び出したものの、元気がなく、朝ご飯を食べずに縁側で寝そべっている。お茶碗のご飯をおにぎりにして朱音(大竹しのぶ)が海に差し出す。
「お箸もつ元気なかったらおにぎり食べるの。食べなきゃだめ。生きていかなきゃいけないから」
水季が死んだとき、朱音と翔平(利重剛)は生きるためにご飯を食べたという。
◆便利使いされていないか、弥生さん
その頃、月岡家では、ゆき子(西田尚美)が夏の好物のロールキャベツを作っている。が、夏の部屋に来て作り置きを冷蔵庫にしまいながら、「食べな」と夏に差し出すのは、かぼちゃの煮物。ロールキャベツは指でつまめない。
弥生(有村架純)は自室でなにか食べようとしていて、余ったパン粉(コロッケ用)に気づく。とそこへ海からの電話。そして、弥生はコロッケを作りながら、夏に電話する。海からの伝言を伝えるのだ。海は夏と水季の話をしたかっただけだった。
亡くなった人の話題の触れ方はどうしたらいいか、人それぞれなので難しい。弥生は、堕胎したとき、「(子どもが)いたって事実は大切にしようとした、忘れないことにした」「忘れなくていいと思うと安心して忘れる時間ができた」と経験談を語る。
「しっかりしてくれ」と夏を励ます弥生。悲しい別れを経て、さばさばお姉さんキャラぽい振る舞いに戻っているが、伝言係に励まし係、便利使いされていないか。大丈夫か、弥生さん。
◆どんなときでも食べて、生きないといけない
夏は南雲家に海を迎えにいき、3人でいれなくてごめんねと謝る。そして、海のさみしさを、弥生や津野(池松壮亮)で埋めてもいいと寛大な心を示す。どこに行っても誰に会ってもいい。海がどこかに行っても、海がさみしくなくなることを待っているよ、と懐の大きくなった夏。
海がはめた水季の形見の指輪を見ながら、確かに水季がいたことを確かめあう夏と海。このときの目黒蓮の横顔が最高によかった。吹っ切れた!という感じ。最終回の夏は成長していた。
伝言係を立派につとめた弥生は、ひとりでコロッケを作って食べている。
朱音が海苔を巻いたおにぎりを夏に持ってくる。
「健康でいてね。海にごはんを食べさせるためにあなたがちゃんとご飯を食べて。健康でいて」
どんなときでも食べて、生きないといけない。
最終回は「食べる」がひとつのモチーフになっていた。おにぎりもロールキャベツもかぼちゃもじつに美味しそうに映っていた。
ここまではすごくやさしい世界。日曜日、夏が仕事で海を留守番させないとならないとき、津野くんに甘えることにする。ここからやや流れが転調する。
◆「はいかいいえで答えられることなんてない」
呼ばれてやって来た津野は「意地悪なので」とケーキを自分と海の分、2個しか買ってこなかった。そこへ弥生が来て、「ここにこの3人でいるのへんですよ」と津野が遠慮して帰ろうとしたとき、大和(木戸大聖)もやって来る。夏の不在の部屋に奇妙な4人組。夏のケータイに津野が撮った海と弥生と大和が、分けたケーキの前で楽しそうに映っている写真が送られてきた。
津野が帰るとき海が追いかけてきて、津野と水季の時間を夏には内緒と微笑み合う。
「ひとりで生んでなかったら、津野さんとも会えてないですもの」なんて水季が意味深に言ったあと、「違いますよ」と期待させないようなことを付け加え「違うんだ」と拍子抜けする津野。こんな思い出が津野にはあった。これかなり仲良いなあと思うし、秘密の思い出として残っていくのだと思う。
夏の部屋に残った大和は弥生に「当分ないと思いますけど彼女できたら教えますね」と言い弥生は「お願いします」と返す。夏と弥生、すぐ元サヤに戻りそうだと思いきや、そうでもなさそうな雰囲気。
でも、はじめて夏の部屋に泊まったときのことを弥生は思い出す。帰りにばったり夏と会い、送ってもらう。はっきりしない関係性は、「はいかいいえで答えられることなんてない」という弥生のセリフに集約される。
津野と水季も弥生と夏も、海のはじまりが曖昧なように、波と砂が溶け合いにじみ合い、近づいたり離れたり、やさしくなったりいじわるしたり、心は定まらない。
◆愛ゆえに、最も関係の深い夏に意地悪が発動してしまう
朱音もまた夏に対して、波のように接していく。
「娘が自分より先に死ぬこと想像してみて。わたしたちはね娘の遺影の写真を選んだの。それがどんなにつらいか、いまならわかってくれるかなって言いました」と重たいことを突きつけて「意地悪ばっかり言ってごめんなさい」と悪びれない。
津野と朱音の意地悪さをここで回収し、意地悪な人も海を、水季を愛しているのだと、いや、愛ゆえに、最も水季と海と関係の深い夏に意地悪が発動してしまうのだ、仕方ない。海と水季を愛する者たちが集まって、助け合う世界への希求が、水季の手紙で綴られる。
水季の手紙には、子どもに「選択肢をあげること」と書いてある。
第1話で、水季は、海と海(sea)に行き、「いるよ。いるから大丈夫。行きたいほうへ行きな」と海を自由に歩かせた。夏も、海の背中を見守り、好きなところに自由に行かせようとする。
そう、親のあとを着いておいで、と先を歩くのではなく、子どもの自由意志を優先するのだ。きっとこれが重要なところ。12話かけてこれを描いていたように思う。
◆ドラマの終は曖昧な、でも心地よい余韻として
最も自由だった水季は、夏を海と手紙で縛っているように見えるが、彼の選択の自由を一応、遺す。ひとはふたりで生まれてくる、ひとりで生きていくなんて無理、だからーーと。ひとりで生きていく自由も認めてくれよ。というのはさておく。
いつか、みんな、水季や海のことを忘れて、それぞれの道を歩むことになるのだろうか。津野や弥生がほかに愛する人をみつけ、子どもをつくり……ということがあるのだろうか。夏も弥生ではない誰かと海を育てていくことはあるのだろうか。
「はじまりは曖昧で終りはきっとない」と言うように、ドラマの終は曖昧な、でも心地よい余韻として終わる。ドラマは終わっても、彼らの人生は続いていく。
<文/木俣冬>
【木俣冬】
フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポルタージュ、インタビュー、レビューなどを執筆。ノベライズも手がける。『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』など著書多数、蜷川幸雄『身体的物語論』の企画構成など。Twitter:@kamitonami
月9『海のはじまり』(フジテレビ 月曜よる9時~)最終回の冒頭は、ありえたかもしれない世界が広がる。明るいオレンジ色の服を着た水季(古川琴音)がおにぎりを握っている。ちょっとキッチンとリビングが広くて、海(泉谷星奈)と夏(目黒蓮)が楽しい家族をやっている。
でも、それは夢――。
◆最終回は贅沢なエンディング
最終回はまさにエンディングといった風情。連ドラの最終回のラスト数分で、その後の登場人物たちのスケッチが描かれることがよくあるけれど、それを丸々1話分を使って見せている印象を受けた。全12話あったおかげの贅沢なエンディングである。
南雲家では、海が夏のいない朝に所在なさげ。悩んで夏の家を飛び出したものの、元気がなく、朝ご飯を食べずに縁側で寝そべっている。お茶碗のご飯をおにぎりにして朱音(大竹しのぶ)が海に差し出す。
「お箸もつ元気なかったらおにぎり食べるの。食べなきゃだめ。生きていかなきゃいけないから」
水季が死んだとき、朱音と翔平(利重剛)は生きるためにご飯を食べたという。
◆便利使いされていないか、弥生さん
その頃、月岡家では、ゆき子(西田尚美)が夏の好物のロールキャベツを作っている。が、夏の部屋に来て作り置きを冷蔵庫にしまいながら、「食べな」と夏に差し出すのは、かぼちゃの煮物。ロールキャベツは指でつまめない。
弥生(有村架純)は自室でなにか食べようとしていて、余ったパン粉(コロッケ用)に気づく。とそこへ海からの電話。そして、弥生はコロッケを作りながら、夏に電話する。海からの伝言を伝えるのだ。海は夏と水季の話をしたかっただけだった。
亡くなった人の話題の触れ方はどうしたらいいか、人それぞれなので難しい。弥生は、堕胎したとき、「(子どもが)いたって事実は大切にしようとした、忘れないことにした」「忘れなくていいと思うと安心して忘れる時間ができた」と経験談を語る。
「しっかりしてくれ」と夏を励ます弥生。悲しい別れを経て、さばさばお姉さんキャラぽい振る舞いに戻っているが、伝言係に励まし係、便利使いされていないか。大丈夫か、弥生さん。
◆どんなときでも食べて、生きないといけない
夏は南雲家に海を迎えにいき、3人でいれなくてごめんねと謝る。そして、海のさみしさを、弥生や津野(池松壮亮)で埋めてもいいと寛大な心を示す。どこに行っても誰に会ってもいい。海がどこかに行っても、海がさみしくなくなることを待っているよ、と懐の大きくなった夏。
海がはめた水季の形見の指輪を見ながら、確かに水季がいたことを確かめあう夏と海。このときの目黒蓮の横顔が最高によかった。吹っ切れた!という感じ。最終回の夏は成長していた。
伝言係を立派につとめた弥生は、ひとりでコロッケを作って食べている。
朱音が海苔を巻いたおにぎりを夏に持ってくる。
「健康でいてね。海にごはんを食べさせるためにあなたがちゃんとご飯を食べて。健康でいて」
どんなときでも食べて、生きないといけない。
最終回は「食べる」がひとつのモチーフになっていた。おにぎりもロールキャベツもかぼちゃもじつに美味しそうに映っていた。
ここまではすごくやさしい世界。日曜日、夏が仕事で海を留守番させないとならないとき、津野くんに甘えることにする。ここからやや流れが転調する。
◆「はいかいいえで答えられることなんてない」
呼ばれてやって来た津野は「意地悪なので」とケーキを自分と海の分、2個しか買ってこなかった。そこへ弥生が来て、「ここにこの3人でいるのへんですよ」と津野が遠慮して帰ろうとしたとき、大和(木戸大聖)もやって来る。夏の不在の部屋に奇妙な4人組。夏のケータイに津野が撮った海と弥生と大和が、分けたケーキの前で楽しそうに映っている写真が送られてきた。
津野が帰るとき海が追いかけてきて、津野と水季の時間を夏には内緒と微笑み合う。
「ひとりで生んでなかったら、津野さんとも会えてないですもの」なんて水季が意味深に言ったあと、「違いますよ」と期待させないようなことを付け加え「違うんだ」と拍子抜けする津野。こんな思い出が津野にはあった。これかなり仲良いなあと思うし、秘密の思い出として残っていくのだと思う。
夏の部屋に残った大和は弥生に「当分ないと思いますけど彼女できたら教えますね」と言い弥生は「お願いします」と返す。夏と弥生、すぐ元サヤに戻りそうだと思いきや、そうでもなさそうな雰囲気。
でも、はじめて夏の部屋に泊まったときのことを弥生は思い出す。帰りにばったり夏と会い、送ってもらう。はっきりしない関係性は、「はいかいいえで答えられることなんてない」という弥生のセリフに集約される。
津野と水季も弥生と夏も、海のはじまりが曖昧なように、波と砂が溶け合いにじみ合い、近づいたり離れたり、やさしくなったりいじわるしたり、心は定まらない。
◆愛ゆえに、最も関係の深い夏に意地悪が発動してしまう
朱音もまた夏に対して、波のように接していく。
「娘が自分より先に死ぬこと想像してみて。わたしたちはね娘の遺影の写真を選んだの。それがどんなにつらいか、いまならわかってくれるかなって言いました」と重たいことを突きつけて「意地悪ばっかり言ってごめんなさい」と悪びれない。
津野と朱音の意地悪さをここで回収し、意地悪な人も海を、水季を愛しているのだと、いや、愛ゆえに、最も水季と海と関係の深い夏に意地悪が発動してしまうのだ、仕方ない。海と水季を愛する者たちが集まって、助け合う世界への希求が、水季の手紙で綴られる。
水季の手紙には、子どもに「選択肢をあげること」と書いてある。
第1話で、水季は、海と海(sea)に行き、「いるよ。いるから大丈夫。行きたいほうへ行きな」と海を自由に歩かせた。夏も、海の背中を見守り、好きなところに自由に行かせようとする。
そう、親のあとを着いておいで、と先を歩くのではなく、子どもの自由意志を優先するのだ。きっとこれが重要なところ。12話かけてこれを描いていたように思う。
◆ドラマの終は曖昧な、でも心地よい余韻として
最も自由だった水季は、夏を海と手紙で縛っているように見えるが、彼の選択の自由を一応、遺す。ひとはふたりで生まれてくる、ひとりで生きていくなんて無理、だからーーと。ひとりで生きていく自由も認めてくれよ。というのはさておく。
いつか、みんな、水季や海のことを忘れて、それぞれの道を歩むことになるのだろうか。津野や弥生がほかに愛する人をみつけ、子どもをつくり……ということがあるのだろうか。夏も弥生ではない誰かと海を育てていくことはあるのだろうか。
「はじまりは曖昧で終りはきっとない」と言うように、ドラマの終は曖昧な、でも心地よい余韻として終わる。ドラマは終わっても、彼らの人生は続いていく。
<文/木俣冬>
【木俣冬】
フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポルタージュ、インタビュー、レビューなどを執筆。ノベライズも手がける。『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』など著書多数、蜷川幸雄『身体的物語論』の企画構成など。Twitter:@kamitonami