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松本潤が大河ドラマ後に“演劇界の巨匠”の舞台へ出た必然。18年前の演劇出演時と変わらないものとは

女子SPA! 2024年10月8日 15時46分

「青嵐」という言葉がある。

初夏に吹く風のことだ。NODA MAP『正三角関係』における松本潤には青嵐が吹くような瞬間があった。彼の嵐でのメンバーカラーは紫で、青は大野智の色だけれど、そこは大目に見てほしい。

◆松本潤、動きの切れ味と正確さ。風のように鋭い

ビュッと吹くと風のように鋭い動きは、松本演じる花火職人・唐松富太郎が、舞台後方にしつらえた橋のように見えるセットにひょいっと飛び上がり一瞬のうちに奥へと消えていくときのものだ。これが何度見ても、実に正確で俊敏で、一緒に見にいった知人は見逃したなどと言っていたほど(そんなあ)。

筆者は、初日と8月中旬と9月終りの大阪で3回観たが、毎回、動きの切れ味と正確さが眼に焼き付いている。9月の大阪でもまだまだ疲れ知らずだと感じた。

◆永山瑛太、長澤まさみら。野田秀樹の演劇で思いがけないところへ

『正三角関係』はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を下敷きに、父・唐松兵頭(竹中直人)殺しの容疑者となった三兄弟の長男・唐松富太郎が有罪か無罪かを問うミステリー仕立ての物語である。

それがじょじょに様相を変えていき、最後は思いがけないところに行き着くところが野田秀樹の演劇の醍醐味(だいごみ)である。ダジャレのような言葉にも重要な意味が隠されていたりして油断ならない。

「(正)三角関係」という言葉にもいろいろなことを想起させるようなところがあって、まるで物理学の数式のように言葉が複雑に精巧に結びあっている。

舞台は日本、時代は戦時中に置き換えられていて、人々を楽しませる花火の火薬は軍に没収されてしまう。富太郎が花火職人の先代である父を殺したとして動機は何なのか。あるいは彼はやっていないとしたらその根拠はあるのか。

裁判では、唐松家の番頭の呉剛力(小松和重)や次男で物理学者の威蕃(永山瑛太)や三男で神に仕える在良(長澤まさみ)などが証言者として発言する。

◆18年前の松本潤も見せた無駄の無さ

容疑者として暗い眼をしてぶっきらぼうに振る舞う松本は、今回の舞台に出演するにあたりおそらく筋力をつけたのであろうか、これまでよりも身体が鍛えられたような印象を受ける。

ひとまわり大きくなったように見えるにもかかわらず、動きに切れ味があるのは筋肉の賜物に違いない。

だがこの鋭角的な動作を筆者はかつても観た記憶があった。18年前、2006年の野田秀樹作、蜷川幸雄演出の『白夜の女騎士ワルキューレ』でのことだ。このことは何度も擦(こす)り続けているのだが、当時、筆者はパンフレットの稽古場レポートを書くため稽古場を見学していた。

野田の描く、被膜(ひまく)の下にもうひとつの世界がある多層性を、奈落(ならく)の上と下で表現した蜷川演出。冒頭、松本は奈落に潜って蓋(ふた)を開ける作業を行う。その手際の良さ。機能美のような無駄のなさが、あのときといまもいい意味でまったく変わっていないように感じた。

当時、当人は、数多くのステージ経験でこういうことは慣れっこなのだとあっさりしたものだったが、筆者としては、松本潤の職人的な端正さは得難いものだと感じた。

◆松本と野田秀樹の考えが違っていたことも

あれから18年、野田秀樹作、演出の新作『正三角関係』で松本が演じたのは、まさに匠の職人であった。

9月の上旬、松本がゲスト出演したトーク番組『A-Studio』(TBS)では、富太郎が花火の発火装置のようなものを作る場面の稽古について語られた。

このとき松本は手際よく作業を行おうとし、身近な道具を使った工作のようなことを「こういうのきれいに作りたいんです」と松本は振り返った。さらに誰がやってもきれいに失敗しないように作ることができるシステムにまで昇華させたいと思ったようなのだが、野田秀樹の考えは違っていた。もっとラフなものを求めていたようなのだ。

永山瑛太は、野田はあえて手こずる過程を経て、その先にあるものを見出したいのではないかと、推測した(プラスアクト9月号、筆者による永山瑛太インタビューより)。

舞台上でのハプニング性も大切にしている野田は、たとえば、劇中活用される養生テープはあえて切れてもおもしろいと考えていたようなのだ。

『えんぶ』10月号で筆者が取材した出演者座談会で、村岡希美が「(切れないように)あらかじめ準備すればできるけれどそれじゃつまらないというところが野田さんの創作の出発点なのかなと」と推察していた。実際、初日、永山と野田の場面でテープが切れて、その対処にあたふたする一幕があり、その予想外の間合いが面白く感じた。

一方、松本は合理的な感覚でテキパキ物事をまとめようとする。そんな松本のことを永山は先述のインタビューでこう言っていた。

「潤君は野田さんに積極的に意見を言っていて、凄いなあと僕は傍らで見ています」

◆松本は「おばちゃん」と言われ、また言うのは

『A‐Studio』では笑福亭鶴瓶が松本を「おばちゃん」と言い、松本は野田も「おばちゃん」だと言っていたが、その意味は、細かいところが気になる、かつ、自論を譲らないということだろうか。同じおばちゃんでも、そのこだわりはそれぞれ違う。

巨匠・野田に意見を言うのはなかなかおそれを知らない気もするが、完璧の美学を持つ人がいてもいいし、手こずることを愛する人がいてもきっといい。

『正三角関係』では三兄弟の生き方はそれぞれ違う。富太郎は花火を作り、威蕃は物理学者を目指し、在良は神に仕える者になる。また、富太郎の父殺しの裁判では不知火弁護士(野田秀樹)と盟神探湯検事(竹中直人二役)が無罪か有罪かで対立する。また、長澤まさみは、神に仕える生真面目な青年と、富太郎と父に取り合いされる奔放で妖艶なグルーシェニカという真逆に見える二役を演じ分ける。

3つの生き方や2項対立に世の摂理をうっすら感じると同時に、演劇界の神のような野田に向かって自論を臆することなく提案する松本の姿にもまた世界の一端が見えるような気がするのである。

◆『どうする家康』のあとで野田の舞台に出た必然

混沌(こんとん)とした世界のなかで誰も失敗しない完璧さを求める松本潤に、筆者は昨年彼が演じた大河ドラマ『どうする家康』(NHK 23年)の徳川家康を思うのである。

家康は子どもの頃からずっと戦争の悲惨さを目の当たりにし続けたすえ、豊臣との最後の決戦・大坂の陣で乱世を終わらせようとする。大砲によって破壊された大坂城の惨状に愕然(がくぜん)としながらも、そこから戦のない江戸幕府が264年もの長きにわたって続いた。その礎を築いたのが家康である。

『正三角関係』はロシアの物語を下敷きにしながら極めて日本の切実すぎる物語なのだが、それをロンドンで上演したら(10月31日〜11月2日)、イギリス人はどう見るだろう。

もしもイギリスの観客が、松本潤は、英国におけるBBCのようなNHKで徳川家康を演じた俳優であるという情報を得たならば、彼が『正三角関係』で演じた役に1本の補助線が引かれるのではないだろうか。

大河の前に、NODAMAPに出るのではなく、大河のあとでNODAMAP に出た必然がそこはかとなくあるように感じてしまうのである。

◆カーテンコールで松本は野田秀樹を

さて、今回の舞台でもうひとつ印象的だったのは、カーテンコール。松本は彼目当てに来た観客たちに作、演出、出演と八面六臂の大活躍をした野田秀樹を紹介するような仕草をしてみせる。僕の大好きな野田秀樹さんです、本当の主役は野田さんなんです、というように。

それがなんともいい感じだった。だって、例えば、野田秀樹のスローモーションの動きは、出演者たちの誰よりも身体に負荷をかけて見えて年季の違いを感じさせるのである。

<文/木俣冬>

【木俣冬】
フリーライター。ドラマ、映画、演劇などエンタメ作品に関するルポルタージュ、インタビュー、レビューなどを執筆。ノベライズも手がける。『ネットと朝ドラ』『みんなの朝ドラ』など著書多数、蜷川幸雄『身体的物語論』の企画構成など。Twitter:@kamitonami

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