SNS総再生回数15億回を誇る、映像制作ユニット「こねこフィルム」によるショートドラマ。その中でも特に注目を浴びている『年齢確認VSプライド』(シリーズ2億回再生)にマダム役で出演しているのが、俳優の赤間麻里子さん。作品の中で見せた「17歳」の演技があまりにもリアルで可愛らしいと話題を呼んでいます。
今回女子SPA!では赤間さんにインタビューを実施。俳優を目指したきっかけや影響を受けた人物、さらに今後の野望について聞かせてもらいました。
◆映画好きな母の影響で、映画俳優に憧れを抱く
――俳優を志すようになったきっかけを教えてもらえますか?
「もともと母が映画好きだったので、一緒に見させられていたんです。いつも横で『グレース・ケリーのドレスが……』『ヒッチコックの演出が……』とか、講釈を聞かされているうちに銀幕のスターに憧れを抱くようになりました」(赤間麻里子さん、以下「」内同)
――最初は映画俳優の道を目指したのですね。
「でも『ウエストサイドストーリー』を見てミュージカルってカッコいい! の方向になりまして。ミュージカル科のある学校に進学し、ニューヨークに行って歌とダンスを習って、本格的に勉強していたんですよ。ただ、これは私の中での感覚なのですが、当時の日本のミュージカルはお芝居に入るとトーンダウンする印象があって、まずは芝居を学ばなければ始まらないと考え、ミュージカル科を中退し、仲代達矢さんが主宰する無名塾に入門したんです」
◆俳優を辞めて、子育てに専念した「その後」
――あの“演劇界の東大”と言われる無名塾の出身だったのですね! どれくらい在籍していたのですか?
「毎日通っていたのは塾生の3年間でしたが、籍は10年置いていました。初めて出会ったプロの俳優が仲代さんだっただけに、自分自身がここまで行けるのか不安はずっとあったんです。結婚を機に無名塾を辞めて、その後はフリーで舞台をメインに活動していました」
――子育ての最中も俳優の仕事は続けていたのですか?
「ゼロではありませんでしたけど、ハッキリ言って売れてはいませんでしたね。結局、一旦は辞めて子育てに専念することにしました。子育てをやり切った後に演技への想いを忘れてしまっていたら、それまでかな、と。才能がなかったということだと思うことにしたんです」
◆20年前の、19歳だったときの自分に“後押し”されて
――でも結果、今でも続けているということは。
「そこは才能云々の話ではないですね。39歳の時に、段ボールいっぱいに入っていた無名塾時代のダメ出し帳を発見したんです。入塾初日に書いた1ページ目には、『40歳になって何者にもなれなかったら潔く諦めること』って書いてありました。おそらく19歳だった当時の私にとって、40歳が違う人生をギリギリ始められる年だと思ってたんでしょうね」
――発見したのが39歳ということは……あと1年! そこで何か行動を起こしたのですか?
「今、誰と仕事をしてみたいのかを考えて思い浮かんだのが、原田眞人監督と井筒和幸監督でした。だからまずは、この二人にアプローチしてみよう、と」
◆「若い俳優志望の子たちばかりの中、ダントツで年上」
――2人とも映画界の大物監督!
「狙うなら大御所を狙っちゃおう。ダメもとなんだから目標は高く! くらいのノリでした。どうせ簡単には近づけないだろうし(笑)。でも、そのタイミングで原田監督がワークショップを行うと知ったんです。原田監督作品のどんなところが好きか、自分の思いを何枚もの手紙にしてワークショップの最終日に手渡しました。その後、映画の研究会やオーディションに呼んでくださるようになったんです」
――原田監督、クリア(笑)! 井筒監督の方は……?
「井筒監督が主宰している学校に40歳で入学しました。でも、周りが若い俳優志望の子たちばかりの中、私だけダントツで年上なわけです。それを『こんなとこにいていいの? おばはん』なんて面白がってくれて、飲みに連れていってもらえるようになったんです(笑)」
◆40代で乳がんに。発見のきっかけは「フランスのお土産」
――そして42歳の時に原田監督の『わが母の記』で映画初出演を果たすも、40代で乳がんが発覚し闘病もされたとか。
「たまたま友人がフランスで胸に張りが出るクリームを買ってきてくれたので塗っていたら、パチンコ玉みたいなしこりを発見したんです。次の日病院に行ったら、がん細胞で、早急に手術となりました」
――何気ない日常の動作の中で気付いたわけですね。
「私は乳がん検診を毎年受けていたのですが、偶然にもその年だけしてなかったんです。たまたま自分で発見できて良かったですけど、周囲の人たちには『必ず検診は受けて!』って言っています。早期であればあるほど治しやすいですからね」
◆とことん調べて考えて、自分で決めた結果と向き合う
――がん闘病の経験者として、伝えておきたいことなどはありますか?
「自分が得た信じられる情報をもって自分の病と向きあった方がいいと感じました。せめて医師と対等に話ができるくらい学んだほうがいい。そうしないと、抗がん剤の副作用なんかでも、すべて医師のせいにしてしまう。恐怖心を克服するためにも、これって大事なんです。すべて自分が決めたことだと思わないと、悪いことが起こった時に自分への言い訳がたたないんですよね」
――赤間さんの言葉には、病気のことだけではない人生の教訓が含まれている気がします。
「そうですね。人生にも通じることだと思います。結婚相手や友達、仕事を選ぶ時にも同じことが言えるのではないでしょうか」
◆ひとつ、ひとつの作品を丁寧に積み上げ続けたい
――最後に俳優としての今後の目標を聞かせてもらえますか?
「私、目標の到達点ってないんですよね(笑)。これまで2~3ヶ月は仕事がないなんてことが当たり前だったから。普段はパートをして、俳優の仕事が入ったらお休みを頂いて、みたいな。だから、今のようにコンスタントにお仕事を頂けて、ひとつ、ひとつの作品を丁寧に積み上げ続けて行けることが、ベストだなと思っています」
――2024年は朝ドラの『虎に翼』(NHK総合)や日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』(TBS系)など、様々な作品に引っ張りだこですもんね。
「1ヶ月以上のブランクが空いてしまうと、次の現場でものすごくに緊張してしまって、毎回振り出しに戻る感覚になっちゃうんですよ。だから今はちゃんと俳優としてステップアップしていける環境なので、これを維持していきたいですね」
◆家族ファーストで、家族も仕事も大切に進んでいく
――では、一人の女性としての目標は?
「私は家族ファーストな人間なので、家族が幸せになれるように尽力することですね。昔は『女優は人生において女優であることだけに徹しなければいない』と思っていました。でも、オードリーヘップバーンやメリルストリープのような世界を代表する女優だってしっかり家族を守って仕事をしている。私も夫と3人の子ども達のことを蔑ろにせず、家族も仕事も大切に進んでいきたいです」
――ありがとうございました!
<取材・文/もちづき千代子 撮影/山田耕司(扶桑社)>
【もちづき千代子】
フリーライター。日大芸術学部放送学科卒業後、映像エディター・メーカー広報・WEBサイト編集長を経て、2015年よりフリーライターとして活動を開始。インコと白子と酎ハイをこよなく愛している。Twitter:@kyan__tama
今回女子SPA!では赤間さんにインタビューを実施。俳優を目指したきっかけや影響を受けた人物、さらに今後の野望について聞かせてもらいました。
◆映画好きな母の影響で、映画俳優に憧れを抱く
――俳優を志すようになったきっかけを教えてもらえますか?
「もともと母が映画好きだったので、一緒に見させられていたんです。いつも横で『グレース・ケリーのドレスが……』『ヒッチコックの演出が……』とか、講釈を聞かされているうちに銀幕のスターに憧れを抱くようになりました」(赤間麻里子さん、以下「」内同)
――最初は映画俳優の道を目指したのですね。
「でも『ウエストサイドストーリー』を見てミュージカルってカッコいい! の方向になりまして。ミュージカル科のある学校に進学し、ニューヨークに行って歌とダンスを習って、本格的に勉強していたんですよ。ただ、これは私の中での感覚なのですが、当時の日本のミュージカルはお芝居に入るとトーンダウンする印象があって、まずは芝居を学ばなければ始まらないと考え、ミュージカル科を中退し、仲代達矢さんが主宰する無名塾に入門したんです」
◆俳優を辞めて、子育てに専念した「その後」
――あの“演劇界の東大”と言われる無名塾の出身だったのですね! どれくらい在籍していたのですか?
「毎日通っていたのは塾生の3年間でしたが、籍は10年置いていました。初めて出会ったプロの俳優が仲代さんだっただけに、自分自身がここまで行けるのか不安はずっとあったんです。結婚を機に無名塾を辞めて、その後はフリーで舞台をメインに活動していました」
――子育ての最中も俳優の仕事は続けていたのですか?
「ゼロではありませんでしたけど、ハッキリ言って売れてはいませんでしたね。結局、一旦は辞めて子育てに専念することにしました。子育てをやり切った後に演技への想いを忘れてしまっていたら、それまでかな、と。才能がなかったということだと思うことにしたんです」
◆20年前の、19歳だったときの自分に“後押し”されて
――でも結果、今でも続けているということは。
「そこは才能云々の話ではないですね。39歳の時に、段ボールいっぱいに入っていた無名塾時代のダメ出し帳を発見したんです。入塾初日に書いた1ページ目には、『40歳になって何者にもなれなかったら潔く諦めること』って書いてありました。おそらく19歳だった当時の私にとって、40歳が違う人生をギリギリ始められる年だと思ってたんでしょうね」
――発見したのが39歳ということは……あと1年! そこで何か行動を起こしたのですか?
「今、誰と仕事をしてみたいのかを考えて思い浮かんだのが、原田眞人監督と井筒和幸監督でした。だからまずは、この二人にアプローチしてみよう、と」
◆「若い俳優志望の子たちばかりの中、ダントツで年上」
――2人とも映画界の大物監督!
「狙うなら大御所を狙っちゃおう。ダメもとなんだから目標は高く! くらいのノリでした。どうせ簡単には近づけないだろうし(笑)。でも、そのタイミングで原田監督がワークショップを行うと知ったんです。原田監督作品のどんなところが好きか、自分の思いを何枚もの手紙にしてワークショップの最終日に手渡しました。その後、映画の研究会やオーディションに呼んでくださるようになったんです」
――原田監督、クリア(笑)! 井筒監督の方は……?
「井筒監督が主宰している学校に40歳で入学しました。でも、周りが若い俳優志望の子たちばかりの中、私だけダントツで年上なわけです。それを『こんなとこにいていいの? おばはん』なんて面白がってくれて、飲みに連れていってもらえるようになったんです(笑)」
◆40代で乳がんに。発見のきっかけは「フランスのお土産」
――そして42歳の時に原田監督の『わが母の記』で映画初出演を果たすも、40代で乳がんが発覚し闘病もされたとか。
「たまたま友人がフランスで胸に張りが出るクリームを買ってきてくれたので塗っていたら、パチンコ玉みたいなしこりを発見したんです。次の日病院に行ったら、がん細胞で、早急に手術となりました」
――何気ない日常の動作の中で気付いたわけですね。
「私は乳がん検診を毎年受けていたのですが、偶然にもその年だけしてなかったんです。たまたま自分で発見できて良かったですけど、周囲の人たちには『必ず検診は受けて!』って言っています。早期であればあるほど治しやすいですからね」
◆とことん調べて考えて、自分で決めた結果と向き合う
――がん闘病の経験者として、伝えておきたいことなどはありますか?
「自分が得た信じられる情報をもって自分の病と向きあった方がいいと感じました。せめて医師と対等に話ができるくらい学んだほうがいい。そうしないと、抗がん剤の副作用なんかでも、すべて医師のせいにしてしまう。恐怖心を克服するためにも、これって大事なんです。すべて自分が決めたことだと思わないと、悪いことが起こった時に自分への言い訳がたたないんですよね」
――赤間さんの言葉には、病気のことだけではない人生の教訓が含まれている気がします。
「そうですね。人生にも通じることだと思います。結婚相手や友達、仕事を選ぶ時にも同じことが言えるのではないでしょうか」
◆ひとつ、ひとつの作品を丁寧に積み上げ続けたい
――最後に俳優としての今後の目標を聞かせてもらえますか?
「私、目標の到達点ってないんですよね(笑)。これまで2~3ヶ月は仕事がないなんてことが当たり前だったから。普段はパートをして、俳優の仕事が入ったらお休みを頂いて、みたいな。だから、今のようにコンスタントにお仕事を頂けて、ひとつ、ひとつの作品を丁寧に積み上げ続けて行けることが、ベストだなと思っています」
――2024年は朝ドラの『虎に翼』(NHK総合)や日曜劇場『海に眠るダイヤモンド』(TBS系)など、様々な作品に引っ張りだこですもんね。
「1ヶ月以上のブランクが空いてしまうと、次の現場でものすごくに緊張してしまって、毎回振り出しに戻る感覚になっちゃうんですよ。だから今はちゃんと俳優としてステップアップしていける環境なので、これを維持していきたいですね」
◆家族ファーストで、家族も仕事も大切に進んでいく
――では、一人の女性としての目標は?
「私は家族ファーストな人間なので、家族が幸せになれるように尽力することですね。昔は『女優は人生において女優であることだけに徹しなければいない』と思っていました。でも、オードリーヘップバーンやメリルストリープのような世界を代表する女優だってしっかり家族を守って仕事をしている。私も夫と3人の子ども達のことを蔑ろにせず、家族も仕事も大切に進んでいきたいです」
――ありがとうございました!
<取材・文/もちづき千代子 撮影/山田耕司(扶桑社)>
【もちづき千代子】
フリーライター。日大芸術学部放送学科卒業後、映像エディター・メーカー広報・WEBサイト編集長を経て、2015年よりフリーライターとして活動を開始。インコと白子と酎ハイをこよなく愛している。Twitter:@kyan__tama