11月18日放送の『tiny desk concerts JAPAN』(NHK)に出演した小沢健二について、様々な意見が飛び交っています。
◆「90年代で止まったまま」VS「批判は幼い冷笑的な態度」賛否わかれる
きっかけは、X(旧Twitter)に投稿された批判的なポストでした。“サブカルスターだった90年代で時間が止まったまま、年齢を重ねたファン相手のディナーショーをする芸能人みたいになってしまって見ていられない”というもの。これに多くのネットユーザーが反応したのです。
“今の社会的な問題意識から大きな宇宙を語るのについていけない”とか、“ウサギの被り物をしていたのにも違和感を感じた”とか、批判に同調する人。
一方で、そういうオザケンを批判するのは幼い冷笑的な態度だという、若いファンのコメントもあり、長年のファンも共感しているようでした。
筆者も放送を見ていました。ウサギの被り物には多少面食らいましたが、まあそういうことをする人だよなとすぐに納得。
途中で挿入された詩の朗読や、メッセージ性の強い映像編集も、復帰後の活動を少しでも知っていればさもありなん。特に感動するわけでもなければ、否定的な感情を抱いたわけでもありませんでした。もっとも、筆者がそこまで熱心なオザケンファンでないのもあるのですが。
いずれにせよ、何か事を起こすたびに賛否両論を巻き起こすあたり、いまだ小沢健二の影響力は衰えていないと感じさせます。
◆独創性に富んだ演奏や曲のアレンジ
そのうえで、今回オザケンの被り物や演出、パフォーマンスにおける振る舞いについて批判的な意見が出たことには、少し違うのではないかと思っています。
というのも、演奏や曲のアレンジ自体はとても斬新だったからです。メッセージや被り物に象徴される最近の思想性を取っ払って聴けば(それは邪道な楽しみ方なのかもしれないのですが)、これまでの『tiny desk concerts JAPAN』(NHK)のなかで、最も独創性に富んだものでした。
『ラブリー』や『今夜はブギー・バック』などの90年代を代表する大ヒット曲が、ハープや木琴を交えて、和製カリプソといったサウンドで蘇(よみがえ)る。豊かな発想を軽やかに実現させるミュージシャンシップ。その一点だけを取っても、とても「90年代で時が止まっている」などとは言えません。小沢健二は現役のミュージシャンなのだということを雄弁に物語っていました。
◆アメリカの本家と比べると日本版は音がこじんまりで小ぎれい
しかし、同時に筆者には物足りなく感じる部分もありました。アメリカの本家『Tiny Desk Concerts』の長年のファンからすると、日本版はどうしても音がこじんまりと、そして小ぎれいに聞こえてしまうからです。
もともと『Tiny Desk Concerts』はアメリカの公共放送ラジオ放送のオフィスの一角で、「親密なコンサート」をコンセプトにスタートしました。レコーディングで製品化された整った音でもなく、大きな会場で大音量で圧倒するのでもなく、歌声や楽器が持つ本来の音を再現することで音楽の“親密さ”を復活させようという試みなのです。
その中で、従来ならば除去されてしまったであろう息遣いや、楽器演奏の合間のちょっとした衣擦れのような微音が漏れ伝わってくる臨場感が新鮮だったのです。
ところが、この番組の根幹である、楽器の生音の荒々しさだとか、フレーズを弾く前の助走にあたるささくれのようなノイズが、日本のミュージシャンからは聞こえてこない。同じ形態、演出で生演奏を放送しているはずなのに、全く違うものに聞こえるのです。
たとえば、デュア・リパのライブでは、針が振り切れそうなボーカル、アコースティックギターのコードチェンジの際の弦と指がこすれる音、そしてドラムを文字通り“叩いている”打撃音が、一気に襲いかかってくるような迫力があります。
これらは、音楽的な細やかな技術や理論というよりも、もっと肉体的な強さを伝えるものです。それを浮き彫りにするために、オフィスの一角という音響的に整っていない場所で音楽を演奏するのですね。デュア・リパに限らず、『Tiny Desk』に出演するミュージシャンは、いわば素手の殴り合いの決闘に向かうようなものです。
音楽を通じて、“その人そのもの”があらわになる。ミュージシャンが圧倒的存在だとわかりやすくするために、環境を削る。それが『Tiny Desk』の醍醐味(だいごみ)なのです。
◆小沢健二の器用な手さばきと知性の切れ味を再認識するものの
今回の出演に際して、小沢健二はNHKのサイトで音へのこだわりを詳細に語っていました。テレビカメラからスマホカメラに切り替わるところで音質も変えた演出とか、生のドラムが演奏するたびに音が変わる「自然なムラ」の暖かみを持っていることを大切にしたとか。
とても本質的な話ですし、真のプロフェッショナルにしか追求できない奥深い世界なのだと思います。
しかしながら、本来のTiny Deskは、職人的な追求から一歩離れた良い意味のラフさ、音楽の大まかな味わいをわしづかみにすることに、企画の意図があります。それが「親密な」(intimate)という形容詞にあらわれている。
だとすると、生真面目なこだわりや高度な知性をある程度捨てる勇気も試されているというわけです。
今回の小沢健二は、その点において、やはり少し物足りなく感じました。音楽を思った通りに操作する知性やクリエイティビティは申し分なくとも、一つの音が五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡る感覚がない。
もっとも、日本版の全ての放送回を通じて、そのような表現に到達したミュージシャンは、いまのところいません。
ともあれ、かぶり物が悪目立ちしてしまったオザケンですが、むしろそのおかげで彼の器用な手さばきと知性の切れ味を再認識できた面はありました。ハッとさせられる瞬間が、いくつもありました。それは、美大でデザインの講義を受けているような感覚だったと言えるのかもしれません。
同時に、その高度に洗練された表現ゆえに、いまの日本の音楽に決定的に欠けているものも浮き彫りにしたと思うのです。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4
◆「90年代で止まったまま」VS「批判は幼い冷笑的な態度」賛否わかれる
きっかけは、X(旧Twitter)に投稿された批判的なポストでした。“サブカルスターだった90年代で時間が止まったまま、年齢を重ねたファン相手のディナーショーをする芸能人みたいになってしまって見ていられない”というもの。これに多くのネットユーザーが反応したのです。
“今の社会的な問題意識から大きな宇宙を語るのについていけない”とか、“ウサギの被り物をしていたのにも違和感を感じた”とか、批判に同調する人。
一方で、そういうオザケンを批判するのは幼い冷笑的な態度だという、若いファンのコメントもあり、長年のファンも共感しているようでした。
筆者も放送を見ていました。ウサギの被り物には多少面食らいましたが、まあそういうことをする人だよなとすぐに納得。
途中で挿入された詩の朗読や、メッセージ性の強い映像編集も、復帰後の活動を少しでも知っていればさもありなん。特に感動するわけでもなければ、否定的な感情を抱いたわけでもありませんでした。もっとも、筆者がそこまで熱心なオザケンファンでないのもあるのですが。
いずれにせよ、何か事を起こすたびに賛否両論を巻き起こすあたり、いまだ小沢健二の影響力は衰えていないと感じさせます。
◆独創性に富んだ演奏や曲のアレンジ
そのうえで、今回オザケンの被り物や演出、パフォーマンスにおける振る舞いについて批判的な意見が出たことには、少し違うのではないかと思っています。
というのも、演奏や曲のアレンジ自体はとても斬新だったからです。メッセージや被り物に象徴される最近の思想性を取っ払って聴けば(それは邪道な楽しみ方なのかもしれないのですが)、これまでの『tiny desk concerts JAPAN』(NHK)のなかで、最も独創性に富んだものでした。
『ラブリー』や『今夜はブギー・バック』などの90年代を代表する大ヒット曲が、ハープや木琴を交えて、和製カリプソといったサウンドで蘇(よみがえ)る。豊かな発想を軽やかに実現させるミュージシャンシップ。その一点だけを取っても、とても「90年代で時が止まっている」などとは言えません。小沢健二は現役のミュージシャンなのだということを雄弁に物語っていました。
◆アメリカの本家と比べると日本版は音がこじんまりで小ぎれい
しかし、同時に筆者には物足りなく感じる部分もありました。アメリカの本家『Tiny Desk Concerts』の長年のファンからすると、日本版はどうしても音がこじんまりと、そして小ぎれいに聞こえてしまうからです。
もともと『Tiny Desk Concerts』はアメリカの公共放送ラジオ放送のオフィスの一角で、「親密なコンサート」をコンセプトにスタートしました。レコーディングで製品化された整った音でもなく、大きな会場で大音量で圧倒するのでもなく、歌声や楽器が持つ本来の音を再現することで音楽の“親密さ”を復活させようという試みなのです。
その中で、従来ならば除去されてしまったであろう息遣いや、楽器演奏の合間のちょっとした衣擦れのような微音が漏れ伝わってくる臨場感が新鮮だったのです。
ところが、この番組の根幹である、楽器の生音の荒々しさだとか、フレーズを弾く前の助走にあたるささくれのようなノイズが、日本のミュージシャンからは聞こえてこない。同じ形態、演出で生演奏を放送しているはずなのに、全く違うものに聞こえるのです。
たとえば、デュア・リパのライブでは、針が振り切れそうなボーカル、アコースティックギターのコードチェンジの際の弦と指がこすれる音、そしてドラムを文字通り“叩いている”打撃音が、一気に襲いかかってくるような迫力があります。
これらは、音楽的な細やかな技術や理論というよりも、もっと肉体的な強さを伝えるものです。それを浮き彫りにするために、オフィスの一角という音響的に整っていない場所で音楽を演奏するのですね。デュア・リパに限らず、『Tiny Desk』に出演するミュージシャンは、いわば素手の殴り合いの決闘に向かうようなものです。
音楽を通じて、“その人そのもの”があらわになる。ミュージシャンが圧倒的存在だとわかりやすくするために、環境を削る。それが『Tiny Desk』の醍醐味(だいごみ)なのです。
◆小沢健二の器用な手さばきと知性の切れ味を再認識するものの
今回の出演に際して、小沢健二はNHKのサイトで音へのこだわりを詳細に語っていました。テレビカメラからスマホカメラに切り替わるところで音質も変えた演出とか、生のドラムが演奏するたびに音が変わる「自然なムラ」の暖かみを持っていることを大切にしたとか。
とても本質的な話ですし、真のプロフェッショナルにしか追求できない奥深い世界なのだと思います。
しかしながら、本来のTiny Deskは、職人的な追求から一歩離れた良い意味のラフさ、音楽の大まかな味わいをわしづかみにすることに、企画の意図があります。それが「親密な」(intimate)という形容詞にあらわれている。
だとすると、生真面目なこだわりや高度な知性をある程度捨てる勇気も試されているというわけです。
今回の小沢健二は、その点において、やはり少し物足りなく感じました。音楽を思った通りに操作する知性やクリエイティビティは申し分なくとも、一つの音が五臓六腑(ごぞうろっぷ)に染み渡る感覚がない。
もっとも、日本版の全ての放送回を通じて、そのような表現に到達したミュージシャンは、いまのところいません。
ともあれ、かぶり物が悪目立ちしてしまったオザケンですが、むしろそのおかげで彼の器用な手さばきと知性の切れ味を再認識できた面はありました。ハッとさせられる瞬間が、いくつもありました。それは、美大でデザインの講義を受けているような感覚だったと言えるのかもしれません。
同時に、その高度に洗練された表現ゆえに、いまの日本の音楽に決定的に欠けているものも浮き彫りにしたと思うのです。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4